電気通信大学藤沢分校物語 (6) 4
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電気通信大学藤沢分校物語 (編集者, 2015/2/13 12:19)
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5・4藤沢市の近代 その1
1868年(明元)9月、明治維新によって神奈川県と改称された。1872年(明5) 羽鳥村の名主三嘴八郎右衛門が、小笠原東陽を招いて読書院を開設し同年8月、学制が布かれると読書院は羽鳥学校に改称し、以下藤沢市城では鵠沼学舎 (現鵠沼小学校) など5校が次々に開校した。一方小笠原東陽の読書院は中等教育部門を私塾として存続させ、後に耕徐塾、更に耕徐義塾と改称し、政財界に多くの人材 (鈴木三郎助、吉田茂等)を送り出した。然し1897年(明30) 台風で校舎が全壊し、1900年(同33) に廃校となった。
王政復古の大号令の下に、明治政府は神政政治を目指し、廃仏毀釈を早々に断行した。この影響をまともに受けたのが江の島の金亀山与願寺である。寺は廃されたが弁財天信仰は引き継がれ、宗像三女神を祀る江島神社となり、宿坊は一般旅館となった。開港以来、片瀬や江の島には多くの外国人が訪れるようになった。動物学者のモースはシャミセンガイ研究の為、江の島に日本最初の臨海実験所を開いた。貿易商のコッキングは江の島の東山頂部にあった与願寺、菜園を買い取り、別荘と熱帯植物園を造営した。ヨーロッパ式の海水浴も伝えられた。医師ベルツは海水浴場適地を探索し、片瀬は海水浴適地と内務省に紹介した。「海水浴場」と銘打った例としては、1886年(明19)の鵠沼海岸海水浴場が最初である。海水浴客を当て込んで「鵠沼館」が開業し5年ほどの間「対江館」 (田中耕太郎建築)「東屋」(伊東将行建築)が相次いで開業した。1891年(明24)学習院が隅田川の浜町河岸にあった遊泳演習場を片瀬に移すと、片瀬海岸に学習院の寄宿舎が建てられた。
1911年(明44)遊泳演習所は沼津御用邸の隣接地に移されるが、この跡地を活用して村営の海水浴場が開設された。長後は、開港地横浜に続く長後街道と機業中心地八王子へ続く八王子(滝山)街道の交差点の故により、台地上の各地に製糸工場が設立され養蚕業の中心地となった。藤沢市城で最初のキリスト教会が開設され、平野友輔が近代医療を開始した。1887年(明20)、後に東海道本線となる横浜-国府津間が開通し藤沢停車場が開設される。鉄道の開通により農業形態も自給農業から商業的農業へ発展した。北部の台地では養蚕に加えてサツマイモ栽培と澱粉工業・アルコール醸造、その残滓を利用した養豚が盛んになる。南部の砂丘地帯はサツマイモやモモなどが特産品となった。