電気通信大学藤沢分校物語 (7) 5
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電気通信大学藤沢分校物語 (編集者, 2015/2/13 12:19)
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編集者
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7・3・2 英龍の晩年
英龍は、日本が内憂外患の激しい状況下に生れ、そして代官の立場からその対策を考え努力した。その過程で、渡辺崋山や高野長英、小関三英等の友人を「蛮社の獄」で失い、そして師範・高島氏が投獄される憂き目にあうなど苦々しい体験を経てきた。しかし幕府が何人ものあたら知識人・有能者を抹殺してなお、日本の針路の決まらないのに焦躁しきりであった。遂に1850年(嘉永3)50歳の時に、反射炉を造り、独力で海防問題に乗り出し、相模国沿岸の防備を説き、台場築造を建議・上申するなか、55歳で死ぬ。その意思は子息英敏に依って継承され、達成されるがその時はもう諸外国との修好条約が結ばれる状況を迎えていた(注79)。
7・4 鉄砲場と農民の負担
国家的観点からの鉄砲場の重要性と、その周辺に住む人々にとっての鉄砲場の意味とは、おのずから別なところがある。地元の人々にとっては鉄砲場というものは、何かにつけて気の重いものであり時には迷惑な事もあった(注72)。
その詳細は省略する。
7・5 鉄砲場の廃止
1728年(享保13)鉄砲場が設置され1850年(嘉永3)の演習を最後にその利用が終わったようで、海防が叫ばれた時代を迎えて、江戸城近郊の演習地に舞台が移された(注75)。
1868年の明治維新により約140年間に亘って利用された鉄砲場は廃止となった。鵠沼村の南東部は日本初の別荘分譲地として開発され、辻堂村西部は日本海軍横須賀海軍砲術学校辻堂演習場となった(注77)。
(注)引用資料は最終稿にまとめて記載します。
注71:調布ネットワーク( Vol.24‐1)
注72:藤沢市史(第5巻)
注73:ウィキペディア「徳川吉宗」
注74:茅ヶ崎市史4通史編
注75:藤沢市文書館古文書講座「鉄砲場関係古文書を読む」平成26年開催
注76:相州炮術調錬場:「相州炮術訓練場編年史料」の編者服部清道氏は、“「炮術調錬場」は俗称「鉄炮場」と呼ばれていたが、その正式な呼称は各種文書でまちまちであり、打小屋場所の移動を考慮して誤解を避けるため「相州」の字を冠し呼ぶ事とした”としている。
文中の「炮」は(注)76、77以外は「砲」と記述した。
注77:ウィキペディア「相州炮術調錬場」
注78‐1:ウィキペディア「江川太郎左衛門」
注78‐2:ウィキペディア「パン」
注79:図説藤沢の歴史
(訂正)前号vol25‐2を訂正します。
①P 42下段12行目 煙害→塩害
②P 45上段2行目 田中耕太郎→井上大次郎
③同、注62 鵠沼郷土資料室→鵠沼郷土資料展示室