電気通信大学藤沢分校物語 (7) 4
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7・3・1 江川太郎左衛門英龍(ひでたつ)
藤沢宿代官江川家は、1723年(享保8)、花木橋と戸塚往還修理の為中原の林を伐り出す際、手代の不正事件が発覚し代官職を解かれる。然し、次の代になり復職し第36代英龍(1801~1855)に受け継がれる。1834年(天保5)、英龍は34歳の時、代官職を継いだ。
それまでの彼は1825年(文政8)の「異国船打払令」に象徴される鎖国日本の状況を憂い、その3年後に起こった「シーボルト事件」を悲しむ。やがて国内では新潟での百姓一揆等、頻発する中に、封建の世の変動を敏感に受け止めていた。彼が代官職を相続して間もな、大塩平八郎の乱(1837年=天保8)、そして米国商船の浦賀入港事件等の大事件が頻発したため、民政の改革と海防の充実を痛感し、職制を超越して西洋の新知識吸収に急傾斜するようになる。
既に開明君主として知られる水戸藩主・斉昭は自ら洋式船建造に踏み切り、幕府に先んじて海防の具体策を実現しつつあった、然し鳥居耀蔵等に代表される幕府役人の頭は鈍かった。周囲の開明武士・知識者が「改革」をいくら言っても実効性はなく、日増しに幕府及びその重職者等への批判は高まっていった。そうした1840年(天保11)、清国とイギリスとの「阿片戦争」が起こり外国からの侵略に対する危機感は日本中に広がっていった。もはや対岸の火事として、傍観できない状況を迎える事になる。
ここに英龍の砲術師範である高島秋帆は「阿片戦争」の日本への影響を予想して、幕府に対し、いわゆる「西洋砲術意見書」を建議した。幕府は一応西洋砲術を採用すべしとの意見を入れて、翌年5月、徳丸が原で洋式銃隊砲隊の調錬を許した(注79)。
然し、幕府の伝統的な砲術家達はこれを酷評したが、実力の差は明らかであった。1842年(天保13)6月、幕府は直参(旗本、御家人)の他、・大名の家臣でも秋帆の訓練を受けてもいいと令し、高島流砲術の声価は定まった。(注72)
英龍が藤沢との関わりを具体的にもつのは1834年(天保5)からである。英龍が藤沢関係のことで最も衝撃的な処断として知られるのは、鉄砲場見廻役と鉄砲方役人・佐々木氏の処罰事件である。鉄砲場に取り立てられて以後、幕府の鉄砲役人達が大勢来て、一定の期間、練習を行っていた。鉄砲場の管理は現地の宿役人に任せられており、幕府方での派遣隊責任者は、いつごろからか佐々木氏となっていたが、本来、芳しくない管理、つまり調錬場内の作付(田作)を地元の農民に許可していた。この事が、1832年(天保3)、国改めで発覚し、佐々木氏は祖父・父・長男ともども流罪、藤沢宿役人・辻堂村名主の5名は、伝馬町の牢屋に投獄された。うち1名は自殺する。この事件は、鉄砲場管理だけの問題でなく別の問題が含まれているようである。それは英龍を先頭とする開明派武士や知識者達の、鉄砲方役人の「砲術」の練習場並びに技術・武器等の旧弊に対する批判が込められていなかったろうかという事である。この説を裏書きするかのように、刀こそ武士の命と信じてきたので、鉄砲を利用するのに、かなりの不平を持っている事と、鉄砲の利用は、鉄砲方役人に任せようとする雰囲気があった。と同時にその鉄砲方役人といえば旧来の「砲術」つまり特権武芸流の仲間に独占され、何の実益性も無い伝統武芸に低迷していた。
この話は、山路愛山が勝海舟の伝記を書くなかで、海舟の回顧談としてのせている。
明治期以降の茅ヶ崎では事件の中心人物である佐々木卯之助を好意的に受け止め1898年(明31)追悼記念碑を建立している(注74)。
1842年(天保13)英龍は日本で初めて堅パンを製造し、日本のパン祖と呼ばれている(注78‐2)。英龍が幕府鉄砲方に就任したのは、1843年(天保14)である(注72)。