電気通信大学藤沢分校物語(9)
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電気通信大学藤沢分校物語 (編集者, 2015/2/13 12:19)
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電気通信大学藤沢分校物語 (2) (編集者, 2015/2/13 12:57)
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電気通信大学藤沢分校物語 (3) (編集者, 2015/2/13 13:53)
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電気通信大学藤沢分校物語 (4) (編集者, 2015/2/13 14:05)
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電気通信大学藤沢分校物語 (5) (編集者, 2015/2/13 14:27)
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電気通信大学藤沢分校物語 (6) (編集者, 2015/2/13 14:40)
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電気通信大学藤沢分校物語 (7) (編集者, 2015/2/13 15:07)
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電気通信大学藤沢分校物語 (8) (編集者, 2015/2/13 20:01)
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- 電気通信大学藤沢分校物語 (8) 4 (編集者, 2015/2/13 20:13)
- 電気通信大学藤沢分校物語 (8) 5 (編集者, 2015/2/13 20:18)
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電気通信大学藤沢分校物語(9) (編集者, 2015/7/24 16:31)
- 電気通信大学藤沢分校物語(9)2 (編集者, 2015/7/25 6:00)
- 電気通信大学藤沢分校物語(9)3 (編集者, 2015/7/26 5:51)
- 電気通信大学藤沢分校物語(9) 4 (編集者, 2015/7/27 6:19)
- 電気通信大学藤沢分校物語(10)前号まで (編集者, 2015/12/17 6:54)
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電気通信大学藤沢分校物語(10)1 (編集者, 2015/12/18 6:40)
- 電気通信大学藤沢分校物語(10)2 (編集者, 2015/12/19 6:34)
- 電気通信大学藤沢分校物語(10)3 (編集者, 2015/12/20 10:05)
- 電気通信大学藤沢分校物語(10)4 (編集者, 2015/12/21 8:14)
- 電気通信大学藤沢分校物語(10)5 (編集者, 2016/12/29 16:09)
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編集者
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1937年(昭12)の日華事変を契機に、わが国は完全に戦時下体制に入った。この事態に対応するため、政府は同年8月24日の閣議で「国民精神総動員実施要綱」を決定し、挙国一致、尽忠報国、堅忍持久などをスローガンとして、これを日本精神の昂揚を期する国民運動にするとともに、国策遂行の基盤たらしめようとした。その後1941年(昭16)に入ると12月8日、大東亜戦争がぼっ発し、翌年4月18日、帝都東京は、米機による第一回の空襲に見舞われることになった。「防護施設の整備と防護訓練の徹底の指示」がされた。1943年(昭18)に入ると戦局の悪化に伴い、防空の切実度は一段と高まった。さらに1944年(昭19)後半になると、空襲も次第に激しさを増し、防空教育訓練も一段と強化されることになった。(注91)
藤沢市も近隣と同様軍事都市化されていく。
9戦時下の藤沢市の状況
9・1 軍需工場の進出(注92)
1933年(昭8)の「神奈川工場名簿」により藤沢市域内の職工5人以上の工場をまとめたのが表9-1である。同表をみてすぐわかることは製糸業の比重の高さである。31工場のうち8工場(約25%)を占め職工数は1096名(約67%)を占める。辻堂の蚕糸興業は1931年(昭6)東京の資本家によって設置されたが、恐慌により経営は順調に進まず、1934年(昭9)には三井物産の委託経営となり、1937年(昭12)には片倉製糸に移った(☆終戦後閉鎖)。東京螺子製作所は1921年(大10)に東京から片瀬に移転し、職工90名で航空機・船舶用精密ネジなどの軍営品を生産し急速に発展していた。他に目立つのは醸造業である。伝統的な酒造業(松本・加藤)に加えて大和・東京・東海などの市域外の有力資本家が出資し、甘藷による醤油醸造、合成酒、洋酒などの醸造を行っている。表9-2は職工数10名以上の1940年(昭15)の旧市域の工場名簿である。表9-1と9-2は地域が異なるとはいえ、市域の工業の様子は相当異なっていることがわかる。
関東特殊製鋼は1932年(昭7)に鵠沼に工場を設立し、1937年(昭12)に39名で航空機・船舶用のバネ、ロールを生産していた。住友金属工業の系列に入ると同時に大々的に拡張し、町の用地斡旋によって辻堂駅北側に移転した(☆2010年(平成22)解散。跡地を含め湘南C-Ⅹとして都市再生プロジェクト事業が進行中である。☆印は筆者注として書き添えた)。
日本精工はわが国有数の鋼球・軸受専門メーカーで、重工業の発展に伴って需要が急増し、1938年(昭13)に鵠沼地区東海道線北側で職工145名で開業した。その後急速な発展を遂げた。前述の東京螺子も軍拡の時代に入ると、各種砲弾の薬莢・弾丸の製造を加え、1939年(昭14)に1500名、1945年(昭20)には5950名の職工を擁する迄拡大した(☆1981年合併によりミネベア株式会社藤沢工場となっている)。
これらの大工場は職工10名以下の下請け・系列会社を多数生んだ。昭和恐慌からの回復と満州事変以降の軍事化が同時に進むことにより、日本の工業は重化学工業化を一気に進めた。京浜工業地帯に近接し、労働力も豊富にあり、工場適地も多かった当地城に、昭和10年代に軍需工場が進出してきたのである。
藤沢市も近隣と同様軍事都市化されていく。
9戦時下の藤沢市の状況
9・1 軍需工場の進出(注92)
1933年(昭8)の「神奈川工場名簿」により藤沢市域内の職工5人以上の工場をまとめたのが表9-1である。同表をみてすぐわかることは製糸業の比重の高さである。31工場のうち8工場(約25%)を占め職工数は1096名(約67%)を占める。辻堂の蚕糸興業は1931年(昭6)東京の資本家によって設置されたが、恐慌により経営は順調に進まず、1934年(昭9)には三井物産の委託経営となり、1937年(昭12)には片倉製糸に移った(☆終戦後閉鎖)。東京螺子製作所は1921年(大10)に東京から片瀬に移転し、職工90名で航空機・船舶用精密ネジなどの軍営品を生産し急速に発展していた。他に目立つのは醸造業である。伝統的な酒造業(松本・加藤)に加えて大和・東京・東海などの市域外の有力資本家が出資し、甘藷による醤油醸造、合成酒、洋酒などの醸造を行っている。表9-2は職工数10名以上の1940年(昭15)の旧市域の工場名簿である。表9-1と9-2は地域が異なるとはいえ、市域の工業の様子は相当異なっていることがわかる。
関東特殊製鋼は1932年(昭7)に鵠沼に工場を設立し、1937年(昭12)に39名で航空機・船舶用のバネ、ロールを生産していた。住友金属工業の系列に入ると同時に大々的に拡張し、町の用地斡旋によって辻堂駅北側に移転した(☆2010年(平成22)解散。跡地を含め湘南C-Ⅹとして都市再生プロジェクト事業が進行中である。☆印は筆者注として書き添えた)。
日本精工はわが国有数の鋼球・軸受専門メーカーで、重工業の発展に伴って需要が急増し、1938年(昭13)に鵠沼地区東海道線北側で職工145名で開業した。その後急速な発展を遂げた。前述の東京螺子も軍拡の時代に入ると、各種砲弾の薬莢・弾丸の製造を加え、1939年(昭14)に1500名、1945年(昭20)には5950名の職工を擁する迄拡大した(☆1981年合併によりミネベア株式会社藤沢工場となっている)。
これらの大工場は職工10名以下の下請け・系列会社を多数生んだ。昭和恐慌からの回復と満州事変以降の軍事化が同時に進むことにより、日本の工業は重化学工業化を一気に進めた。京浜工業地帯に近接し、労働力も豊富にあり、工場適地も多かった当地城に、昭和10年代に軍需工場が進出してきたのである。