電気通信大学藤沢分校物語 (7)
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電気通信大学藤沢分校物語 (編集者, 2015/2/13 12:19)
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編集者
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逓信省は、藤沢市に分教場設置を望んだ理由の一つは「関係方面に連絡して適当な土地を物色したが、海軍関係とも密接な関係のある湘南海岸が非常に好適の地であると考え、調査した結果、鵠沼海岸の某地点に川沿いに好適の地があった」と藤沢市議会で明言した(注71)。
では、海軍と密接な関係とはどういう事なのか?
その遠因を探ると、藤沢に1728年(享保13)設置された鉄砲場に突き当る。1868年(明治元)に廃止されたが、そのうちの辻堂が横須賀海軍砲術学校演習場として近代日本海軍に引き継がれ、密接な関係が生じるのである。
7.鉄砲場
7・1 大砲(大筒)の進歩(注72)
豊臣秀吉による朝鮮出兵(1592~1598)では、日本軍は鉄砲に於いては質量共に優れていたが、大砲では明軍、朝鮮軍に劣っており、戦争後期には大いに苦しめられた。大阪の陣(1614~1615)の時には東軍は多くの大砲を持ち、これを攻城の最大の武器とした。島原の乱(1637~1638)の時にも、攻城軍は多数の大砲を使用し籠城軍を苦しめた。そして遂に1644年(正保元)には五貫目玉(19㎏)の青銅製巨砲さえ出現したという。然し、その後は泰平が続き大砲技術は停滞、退歩してしまったようである(洞富雄『種子島銃』)。
7・2 享保の改革
1716年(享保元)徳川吉宗は江戸幕府の第8代将軍に就任した。吉宗は紀州藩主の藩政を幕政に反映させ、第6代家宣、第7代家継の正徳の治(1711~1716)を改める享保の改革(1716~1745)即ち幕府権力の再興に務め、増税と質素倹約、新田開発などの公共政策、公事方御定書の制定、目安箱の設置などを実施した(注73)。
享保の改革は、幕府機構及び民政の上でも後代の規範を作りあげた事において幕政史上注目されているが、この時代は学問や武備の面でも後代の源流を形成したという点で注目する必要がある。幕府の正史たる『徳川実紀』は勿論、歴代の将軍をほめたたえているが、『実紀』が彼に与えた評価は「聡明大度」と「膂力(腕力)抜
群」であった。彼は武芸を大いに奨励したし、彼自身も達者だった。綱吉の時廃止された鷹狩りりに江戸の近郊で鷹狩りをやった事は有名である。元来、徳川氏の支配は武力を以って成立したものだから、その精神を失わない事が大切だとし、武道訓練をも進め、その中に大砲や鉄砲が入っていた事は勿論である(注72)。