電気通信大学藤沢分校物語(10)6
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電気通信大学藤沢分校物語 (編集者, 2015/2/13 12:19)
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電気通信大学藤沢分校物語 (6) (編集者, 2015/2/13 14:40)
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電気通信大学藤沢分校物語(9) (編集者, 2015/7/24 16:31)
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電気通信大学藤沢分校物語(10)1 (編集者, 2015/12/18 6:40)
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編集者
居住地: メロウ倶楽部
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新校舎敷地の下見(注1102)
目黒無線会同窓合誌(第8号)は「新校舎敷地湘南に選ばる」と題して次のように伝えている。
「昭和17年3月21日大東亜聖戦下の春季皇霊祭のその日、車中一同、祖国の御楯と散華された英霊に、彼岸の御冥福と感謝の誠心を捧げつつ、東京発午前9時50分伊東行きの列車は藤澤駅に到着、途中混雑の為、別々に乗車した同行の人達も藤澤駅で落ち合って挨拶を交歓をするという始末、小田原急行鵠沼行に乗り換へて、4ツ目(原文のママ、2ツ目?)の停留所鵠沼海岸駅で下草、出迎えの富永先輩の案内で一同徒歩視察ということになった。
昔の海岸村は中々立派な町になって驚かされた。鵠沼の町を横切って、駅より10分程にて、日の出橋の袂に出るが川は北より南に流れている、この川を引地川と謂うらしい。将来この川を利用して鍛錬用のカッターが浮かび海に漕ぎだされることになるそうである。
水量は相当多いらしいが水深は餘り深く無さそうである。
川口まで3丁(筆者注、327m)位である。日の出橋の付近より霊峰富士を眺むることが出来る。この辺より見た富士は裾が長く愈々その姿は吾々一同に強い印象を与える。
日の出橋を渡ると、新校舎の敷地が全面的に展開して、右は道路を(この道路はやがて七間道路に拡張されて辻堂に通ることになると謂う話である)境界にして、一面の左は松林で、松林の入口に一軒、松林の中に文化風の住宅が目下二軒あるが、之の道路を挟んで、参萬坪が実に官立無線電信教習所の鵠沼新敷地なのである。
右の方に一万五千坪即ち全敷地の半分を寄宿舎用地、教職員住宅地、及び寄宿舎用自給自足或いは生徒鍛練用の田園となる話である。松林の入口より運動場用地となる所を進むに従って、相模湾に寄せる黒潮の囁きが、春の陽を剪(筆者注、切るの意)って聞こえて来る。運動場の予定地を過ぎると、校舎の予定地になるが、校舎の建坪が三千坪と言う事になっている。校内が広いので中に通りが出来て居り永楽通りと書いた道標があった。敷地を南に行くと背の低い松林になるがその向こうが江の島より辻堂へと続くコンクリートの立派な道路(筆者注、湘南遊歩道)になる。道路の下が砂丘状の海岸で、左前方2キロ位のところに江の島が見える。同行者一同、江の島の桟橋の方へこのコンクリートの道路を東に行く、左手一面が敷地で校門を南に面して即ち海岸に向けて建てる様な話であった。
この敷地より約20分程度で江の島の洗心亭に到着、一同昼食を共にして、この日の敷地下見
分行きを終えた。(中野記)」
これを読むと1942年(昭和け)の時点で計画のおおよそは生徒に知らされていたかと思える。
目黒無線会同窓合誌(第8号)は「新校舎敷地湘南に選ばる」と題して次のように伝えている。
「昭和17年3月21日大東亜聖戦下の春季皇霊祭のその日、車中一同、祖国の御楯と散華された英霊に、彼岸の御冥福と感謝の誠心を捧げつつ、東京発午前9時50分伊東行きの列車は藤澤駅に到着、途中混雑の為、別々に乗車した同行の人達も藤澤駅で落ち合って挨拶を交歓をするという始末、小田原急行鵠沼行に乗り換へて、4ツ目(原文のママ、2ツ目?)の停留所鵠沼海岸駅で下草、出迎えの富永先輩の案内で一同徒歩視察ということになった。
昔の海岸村は中々立派な町になって驚かされた。鵠沼の町を横切って、駅より10分程にて、日の出橋の袂に出るが川は北より南に流れている、この川を引地川と謂うらしい。将来この川を利用して鍛錬用のカッターが浮かび海に漕ぎだされることになるそうである。
水量は相当多いらしいが水深は餘り深く無さそうである。
川口まで3丁(筆者注、327m)位である。日の出橋の付近より霊峰富士を眺むることが出来る。この辺より見た富士は裾が長く愈々その姿は吾々一同に強い印象を与える。
日の出橋を渡ると、新校舎の敷地が全面的に展開して、右は道路を(この道路はやがて七間道路に拡張されて辻堂に通ることになると謂う話である)境界にして、一面の左は松林で、松林の入口に一軒、松林の中に文化風の住宅が目下二軒あるが、之の道路を挟んで、参萬坪が実に官立無線電信教習所の鵠沼新敷地なのである。
右の方に一万五千坪即ち全敷地の半分を寄宿舎用地、教職員住宅地、及び寄宿舎用自給自足或いは生徒鍛練用の田園となる話である。松林の入口より運動場用地となる所を進むに従って、相模湾に寄せる黒潮の囁きが、春の陽を剪(筆者注、切るの意)って聞こえて来る。運動場の予定地を過ぎると、校舎の予定地になるが、校舎の建坪が三千坪と言う事になっている。校内が広いので中に通りが出来て居り永楽通りと書いた道標があった。敷地を南に行くと背の低い松林になるがその向こうが江の島より辻堂へと続くコンクリートの立派な道路(筆者注、湘南遊歩道)になる。道路の下が砂丘状の海岸で、左前方2キロ位のところに江の島が見える。同行者一同、江の島の桟橋の方へこのコンクリートの道路を東に行く、左手一面が敷地で校門を南に面して即ち海岸に向けて建てる様な話であった。
この敷地より約20分程度で江の島の洗心亭に到着、一同昼食を共にして、この日の敷地下見
分行きを終えた。(中野記)」
これを読むと1942年(昭和け)の時点で計画のおおよそは生徒に知らされていたかと思える。