電気通信大学藤沢分校物語 (7) 2
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編集者
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7・2・1 鉄砲場の設置
幕府の享保の改革の一環として、鉄砲方役人たちの武術鍛錬の場として、さらにいえば当時、軍事部門を担当する番方衆の士気昂揚を目的として湘南海岸に設置されたものである。その本質的意義は幕府の軍備・軍事力の低下を防止するという点にあったと思われる。その後、1792年(寛政4)には武州西台徳丸が原(板橋区高島平、筆者注:高島平の地名は高島秋帆にちなんで名付けられたという)に鉄砲場を設け、さらには1843年(天保14)に江戸四ツ谷角筈村に、翌年は下渋谷村、赤坂今井、1852年(嘉永5)大森海岸、1854年(安政元)深川越中島に設置した。こうした増設の目的は対外防衛意識の台頭による軍備の拡大であった(注74)。
幕府の大筒(大砲)実射場は早くより鎌倉海岸にあった。(注72)1728年 (享保13年)、幕府鉄砲方の井上左太夫貞高が、鎌倉の西方、茅ヶ崎の柳島村(相模川河口)から藤沢の片瀬村までの海岸を鉄砲場としたのである(注77)。
鉄砲場が設置された当初は、区域の各村々は旗本領であったが、柳島村以外は逐次幕府領に組み入れられ代官支配村となった。代官は文官であり、幕府を支える年貢徴収が主任務で、一面、領民を守る民政の担当者として、治安維持や訴訟なども取り扱った。それに対する武官は鉄砲場での演習に従事する大筒役や鉄砲方であり、純粋に火砲・銃器の製造や火薬類の準備、演習での火術の指導などが任務であった(注75)。
選定の大きな理由は、砲術調錬に適した藤沢の地形的特質、即ち山上からの射撃、舟上からの試射、長い海岸線を有する砂丘の荒野、また江戸、鎌倉に近く、藤沢宿(東海道五十三次)にも近い地理的利便性もあったからであろう。
服部清道氏は「相州炮術調錬場編年史料」(注76、昭和44年発行)の中で、享保の改革で活躍した大岡越前守忠相(1677~1752)の介在があったのではないかと述べている。「大岡氏は天正19年(1591)以来この地方に采地を有し、且つ堤村の浄見寺(筆者注:茅ヶ崎市では毎年4月下旬大岡越前祭を催している)をもって代々の葬地としていた事により、当地方の地理的環境にも相当明るかったと思われ、また忠相の実父忠高、養父忠実(原文のママ)共に、元禄年中(1688~1704)にそれぞれ御先鉄砲頭をつとめ、更に相州鉄炮調錬場が設けられた享保13年(1728年)には、忠相は江戸町奉行として幕府の要職者との接触があっただろうと考えられ、初め幕府がこの地に炮術調錬場を設けるに就いては、予め幕府当事者の検分調査が為されたでありましょ、が、それに至るまでの予備的な資料の提示なり、推挙なりに、大岡氏の介在を想定したいと思うのです。」
然し、郷土史研究家、東哲郎氏は「これまでの研究では何故、此の地が鉄砲場として設定されたかの確証はない」と述べている(注75)。