電気通信大学藤沢分校物語 (8) 2
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8・3 軍港横須賀と辻堂演習場(注83)
1868年(明初)、明治政府は旧幕営横須賀造船所を幕府から引継ぐと共に、横須賀湾を日本海軍の軍港として強化し、また辻堂の幕府鉄砲場をも接収して軍隊の演習場や実弾射撃場に拡張・利用した。政府は旧幕府の借財の担保物件として、フランスの管理に移っていた横須賀造船所の抵当権を、英国東洋銀行から資金の調達を受けて、解除して取戻したうえ、1872年 (明5) には海軍省へ移管した。以後、同工場は 「事務章程」 や「職工規則」を制定すると共に、1877年 (明10)代以降、錬鉄・鋳造・製缶・組立・船渠などを含む諸施設を拡充し、後に舞鶴・呉・佐世保などとならぶ海軍工廠の一つとして整備されていった。
横須賀には「帝国海軍」の創設と共に、海軍区の警衛、艦隊の出動、沿海の防備を担当し所属部隊を監督する官庁として鎮守府が開設され、早くから軍事都市としての機能をもつようになる。海軍の創立当初には軍港・要港の設備がなかったが、1871年 (明4)、兵部省の中に海軍提督府が設置されたのが鎮守府の始めである。
1884年(明17) に東海鎮守府が横浜から横須賀に移転されると共に、横須賀鎮守府と改称、鎮守府条例が制定された。ほぼこの段階になると、参謀部・軍医部・主計部・造船部・兵器部・建築部・軍法会議・監獄署・軍港司令部・屯営・水雷営・病院・武庫・倉庫・造船所・軍政会議などその機構がかなり整備された。1889年 (明22)、軍港司令官が任命され、第一は横須賀、第二は呉、第三は佐世保、第四は舞鶴などにも鎮守府が開庁され、軍備拡張と共に東日本に於ける海軍の基地としての基礎が確立した。(『海軍制度沿革』海軍省編)。
以後1916年 (大5) に、海軍航空隊も創設され、1923年 (大12)の関東大震災の後には海岸の埋立・拡張と共に、市内各所の海軍諸施設が横須賀・箱崎の二半島に集中して、海軍用地としての性格が増した。
横須賀は、そうした軍事都市として、その規模を拡大してきたのみならず、「東京ハ我国ノ脳髄タル首府ナリ、東京湾口防備ノ必要ナルコトハ固ヨリ言ヲ侯タザルナリ」 岩海岸要地防御ノ位置選定ノ件』 1891年 (明24年)、参謀次長川上操六意見葦 との軍部の認識を前提に進められる東京湾の要塞化の過程でも重要な位置
にあった。
東京・品川・横浜・横須賀を含む 「海岸防御」体制の整備は、フランスやオランダの工兵技術を土台に、軍部が1873~74年 (明6~7)前後から具体化するが、三海壁(人口砲台)の構築と、それに平行して推進された横須賀を中心とする夏鳥・笹山・箱崎・波島その他の地区にわたる砲台の建設で、それら備胞工事は、ほぼ1894~1895年明27~28)の日活戦争期までにその大部分を完了した。1896年 (明29) に要塞司令部が設置され、1899年 (明32) に要塞地帯法が制定された。次いで
1915年(大4)にはそれが強化されて、横須賀を中心とする東京湾とその周辺の要塞化が一応完成した(『東京湾要塞歴史』東京湾要塞司令部)。