電気通信大学藤沢分校物語(9)3
投稿ツリー
-
電気通信大学藤沢分校物語 (編集者, 2015/2/13 12:19)
- 電気通信大学藤沢分校物語 (1) 2 (編集者, 2015/2/13 12:44)
- 電気通信大学藤沢分校物語 (1) 3 (編集者, 2015/2/13 12:46)
- 電気通信大学藤沢分校物語 (1) 4 (編集者, 2015/2/13 12:54)
-
電気通信大学藤沢分校物語 (2) (編集者, 2015/2/13 12:57)
- 電気通信大学藤沢分校物語 (2) 2 (編集者, 2015/2/13 13:10)
- 電気通信大学藤沢分校物語 (2) 3 (編集者, 2015/2/13 13:18)
-
電気通信大学藤沢分校物語 (3) (編集者, 2015/2/13 13:53)
- 電気通信大学藤沢分校物語 (3) 2 (編集者, 2015/2/13 14:00)
- 電気通信大学藤沢分校物語 (3) 3 (編集者, 2015/2/13 14:01)
-
電気通信大学藤沢分校物語 (4) (編集者, 2015/2/13 14:05)
- 電気通信大学藤沢分校物語 (4) 2 (編集者, 2015/2/13 14:07)
- 電気通信大学藤沢分校物語 (4) 3 (編集者, 2015/2/13 14:09)
- 電気通信大学藤沢分校物語 (4) 4 (編集者, 2015/2/13 14:11)
-
電気通信大学藤沢分校物語 (5) (編集者, 2015/2/13 14:27)
- 電気通信大学藤沢分校物語 (5) 2 (編集者, 2015/2/13 14:33)
- 電気通信大学藤沢分校物語 (5) 3 (編集者, 2015/2/13 14:35)
- 電気通信大学藤沢分校物語 (5) 4 (編集者, 2015/2/13 14:37)
-
電気通信大学藤沢分校物語 (6) (編集者, 2015/2/13 14:40)
- 電気通信大学藤沢分校物語 (6) 2 (編集者, 2015/2/13 14:42)
- 電気通信大学藤沢分校物語 (6) 3 (編集者, 2015/2/13 14:43)
- 電気通信大学藤沢分校物語 (6) 4 (編集者, 2015/2/13 14:46)
- 電気通信大学藤沢分校物語 (6) 5 (編集者, 2015/2/13 14:49)
-
電気通信大学藤沢分校物語 (7) (編集者, 2015/2/13 15:07)
- 電気通信大学藤沢分校物語 (7) 2 (編集者, 2015/2/13 15:10)
- 電気通信大学藤沢分校物語 (7) 3 (編集者, 2015/2/13 15:12)
- 電気通信大学藤沢分校物語 (7) 4 (編集者, 2015/2/13 15:14)
- 電気通信大学藤沢分校物語 (7) 5 (編集者, 2015/2/13 15:15)
-
電気通信大学藤沢分校物語 (8) (編集者, 2015/2/13 20:01)
- 電気通信大学藤沢分校物語 (8) 2 (編集者, 2015/2/13 20:07)
- 電気通信大学藤沢分校物語 (8) 3 (編集者, 2015/2/13 20:10)
- 電気通信大学藤沢分校物語 (8) 4 (編集者, 2015/2/13 20:13)
- 電気通信大学藤沢分校物語 (8) 5 (編集者, 2015/2/13 20:18)
-
電気通信大学藤沢分校物語(9) (編集者, 2015/7/24 16:31)
- 電気通信大学藤沢分校物語(9)2 (編集者, 2015/7/25 6:00)
- 電気通信大学藤沢分校物語(9)3 (編集者, 2015/7/26 5:51)
- 電気通信大学藤沢分校物語(9) 4 (編集者, 2015/7/27 6:19)
- 電気通信大学藤沢分校物語(10)前号まで (編集者, 2015/12/17 6:54)
-
電気通信大学藤沢分校物語(10)1 (編集者, 2015/12/18 6:40)
- 電気通信大学藤沢分校物語(10)2 (編集者, 2015/12/19 6:34)
- 電気通信大学藤沢分校物語(10)3 (編集者, 2015/12/20 10:05)
- 電気通信大学藤沢分校物語(10)4 (編集者, 2015/12/21 8:14)
- 電気通信大学藤沢分校物語(10)5 (編集者, 2016/12/29 16:09)
- 電気通信大学藤沢分校物語(10)6 (編集者, 2016/12/29 16:17)
- 電気通信大学藤沢分校物語(10)7 (編集者, 2016/12/29 16:31)
編集者
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 4298
9・3辻堂演習場(昭和期)(注93)
1911年(明44)、海軍砲術試験場は千葉県方面に移し、辻堂の用地は主として海軍陸戦隊の演習の専用地となった。
9・3・1射撃場設備要図(注94)
1942年(昭17)に横須賀海軍砲術学校が作成した「辻堂付近」図のなかの辻堂海岸の「海軍用地」部分を写した「射撃場設備要図」(辻堂茂兵衛資料館蔵)がある。その図に演習に関するさまざまな情報が書き込まれている。(紙数の都合上、詳細は省略する)
9・3・2演習(新兵教育総仕上げ) (注95)
・海軍機関学校(後の海軍工機学校)の生徒も合同で演習に参加した。
・辻堂海岸の広大な砂丘を戦場に見立て、紅白に分かれて演習を行う。
・攻撃部隊、陣地防御部隊のいずれかとなり、3日間行う。
・最初は中隊単位で演習を行う。
・白い事業服を着て、斥候の訓練、報告要領の訓練をしながら前進する。
同時に、相手との駆け引きを展開する。
・仕上げは白兵戦(大隊対抗の遭遇戦)となる。
・各隊との連携訓練を重ねながら敵に接近し、攻防戦を展開する。
・この訓練は空砲を撃つことが許される。
・戦機が熟すると「着剣」の号令がかかる。
・小銃の先に銃剣を差し、突撃ラッパを合図に敵陣へ突進し、最後に双方が着剣を十字に組合せ、「ウオーッ」と大歓声を上げ、白兵戦を終了する。
・最終日は、追撃退却戦を行う。
・辻堂から鎌倉まで砂浜を走り、鎌倉市街地を経由して、一挙に駆け抜ける。
演習写真(9-3)を示す。(注%)
9・3・3民宿
ところで演習のために訪れた兵士達は、演習地の北に隣接する辻堂集落(現辻堂元町3丁目付近)に民宿した。明治時代から「民宿」が行なわれていてその後「民宿」は慣習・常態化したため、辻堂の民家の構造は年毎に改造され、田舎には珍しい座敷と浴場を備えるようになり、それなりの経済効果をもたらした。(注93)
宿泊には一応の費用は払われていたが、それ以上に宿を貸す家々の準備のための出費は大きかったと思われる。なお、兵隊達の食事は烹炊所(ほうすいじょ)に定められた家で作られ、宿泊家の負担にならなかった。辻堂元町の古いお宅には、宿泊した兵隊と家人が並んで撮った記念写真が数多く残されている。(注97)