電気通信大学藤沢分校物語 (6) 3
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編集者
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5・3 藤沢市の近世
15世紀末、小田原城に入った伊勢宗瑞 (のちに北条早雲とよばれる後北条氏の祖) は、16世紀に入ると相模一帯の支配に乗り出し、上杉朝長の大庭城を落とす一方、玉縄城や鵠沼砦を築き相模川以東を東都として支配し、ここに大庭御厨は消滅したと考えられる。後北条氏は藤沢に大鋸引 (おがびき、製材業・大工)を集住させ伝馬を置く。これが「大鋸(だいざり)」の地名の起こりであり、現在に続く藤沢の街の基礎が形成された。1590年(天正18)豊臣秀吉の小田原攻めで後北条氏は敗北し、遺領は徳川家康の支配下に入った。家康によって五街道が整備され、藤沢に御殿・代官陣屋が設置され、東海道の伝馬宿となった。
江戸初期に遊行上人普光が再建した清浄光寺(遊行寺) (写真①)は、1631年(寛永8)幕府から時宗247寺の総本山として認められた。藤沢は宿場町と門前町を兼ねた性格をもつようになる。江戸の町人文化が安定して発展した元禄期頃から、大山詣や江の島詣(写真②)が盛んになり、藤沢宿は東海道の往来ばかりでなく、江の島道の分岐点としても賑わうようになる。この頃、杉山検校が江の島道の各所に弁財天道標を建てた。一方、藤沢宿周辺の43か村は助郷村に指定されて負担が増した。(写真①、写真②‥注63)
1728年(享保13)幕府鉄砲方の井上左太夫貞高が享保の改革の一環として片瀬山から相模川に至る湘南海岸に相州砲術調錬場(鉄砲場)を設置する。鉄砲場内での耕作が禁じられたほか、物資運搬や宿舎提供などが義務付けられ、村民の負担はさらに増えた。
藤沢市城は水田適地が少なく、麦や雑穀を中心とする自給的な農業が中心だった。辻堂や鵠沼の砂浜では地引網が主な漁法だった。漁獲物の多くはイワシで、干鰯(ほしか)として肥料にされた。江の島ではカツオ漁と磯物のイセエビやサザエ漁が行われた。片瀬は河口港として発展し、高瀬舟で川を下ってきた年貢米や諸物資が、200石船などの外洋船に積み替えられた。260年余の江戸時代には、元禄地震や安政地震をはじめ、想定マグニチュード7以上の巨大地震は9回を数え、富士宝永山の大噴火や浅間山の大噴火が飢饉をもたらした。藤沢宿は境川の谷の出口がふさがれたような場所にあるため、しばしば水害に悩まされた。