鎮魂・西海に、比島に、そしてシベリアへ 28
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編集者
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村松町民と少通生の心の交流 その2
○成川茂男氏から波多ハナさんへ(昭和55年11月24日付)
前略この度は突然お邪魔し失礼致しました。知らぬことながら当時応召されておられましたご主人様のご戦死を心からお悔やみ申し上げます。
テレビドラマの様な35年振りの再会に、生きて帰って来られた私の心は弾むばかりでしたが、あの時、お世話になった大場一美君が一緒でなかったことが残念でなりません。でも、奥様のお顔を見た時、間違いない、あの時のお嫁さんだと直ぐ分りました。なお、この手紙は患っている頭の細胞を必死に揺り起こしながら書いておりますので、記憶違いもあろうかとは思いますが、お許しの上、35年前の昔のようにお付き合いさせて頂きますようお願い申し上げます。
(中略)
私は昭和20年3月の卒業組でしたが、当時は軍事機密で派遣されるその日の朝まで自分の行き先が何処なのか、教えて貰えず、結局、私は満州の奉天でした。終戦後、シベリアに抑留され、23年9月に復員しましたが、可なり遅かったようです。
満州派遣の前に卒業休暇がありましたので、形見の心算で少通校時代の日誌やお宅様のお名前の載っている住所録など、家に残して置いたのですが、釧路の空襲のどさくさなどで総て紛失してしまっており、それから30余年、お宅様のことを気にかけながらも、お名前が、畑さん?とうろ覚えでは生還のお知らせの手紙を書きようもなく、空しく日々を過ごしておりました。
10年前の45年10月、少通兵の慰霊碑が御地に建てられました時、村松までは行ったのですが、団体行動であり、生き残りの戦友と25年ぶりの再会で、お互いの生存を喜び合うと共に、俺達がやらなければ誰が亡き戦友の魂を慰めるのか、など、皆興奮して徹夜で語り合い、お世話になったお宅様の住所やお名前を探す暇もなく(私勝手なことではありましたが)そのまま戻ってしまいました。
(中略)
それから10年後、漸くその機会に恵まれました。偶々孫を四国に送って行った帰り、新潟に回り少しでも時間をとって村松のお宅を探そうと計画しました。大阪から新津駅に着いたのが夜の9時40分、五泉行の最終列車で五泉に着いたのが深夜の11時でした。駅からハイヤーに乗り、何処か宿に、と頼みましたが、時間が遅く町の中では開いているところはないとの返事で、咲花温泉まで調べてもらいましたが、何れも満員で、念々困り果て、「明日村松に行く積りだが、自分の記憶では、村松には2軒旅館があった筈だから、昔の少通兵が慰霊碑をお詣りに行くのだから、どちらかの旅館に起きてもらって欲しい」と頼みましたところ、幸い若松屋旅館が起きてくれました。
翌朝、警察の派出所に出向き畑さんの住所を尋ねましたが、年配の部長さんが「畑という該当者はいないが、羽田なら可なりいる。何の用事で訪ねるのか」と聞くので、35年前にお世話になったことを話しましたら親身になって探してくれ、波多という家だとお宅を探し当ててくれました。で、直ぐ慰霊碑を訪れ、亡き戦友の冥福を祈った後、大場の霊に向かっては特に念入りに「これから波多さんの処に行くから」と報告して、お宅様に参上した次第です。