鎮魂・西海に、比島に、そしてシベリアへ 30
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鎮魂・西海に、比島に、そしてシベリアへ (編集者, 2012/10/26 7:59)
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編集者
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村松町民と少通生の心の交流 その4
では、これを読まれて、皆様は如何お感じになりましたでしょうか? 勿論、成川氏が「二人だけの秘密の場所」とされただけあって、これは特別なケースで、大半の生徒は、時折、休日に地方から駆け付けたご両親と横山旅館等で懇談し、持参の牡丹餅に舌鼓を打った程度で、私など東京出身者は面会自体も儘ならず、生徒集会所で本を読むか、或いは練兵場の草原に寝転んで空を仰いで家族を思うなど、時折、営外居住の区隊長の下宿にお邪魔して娑婆の空気に触れさせて頂くことはあっても、そう親しく個人的に町の方々と接した記憶はありません。
でも、そうこうする中、私は、私達を見守る町の人々の目がとても優しく感じられることに気付きました。当時はそれが何故なのか判りませんでしたが、今では、或いはこんなことも原因していたのではないかと、考えるに至りました。
即ち、その一つが、当時、村松少通校で行われていた教育の内容とその様子です。村松校は昭和18年10月に開校、12月に11期生が入校しましたが、教育に携わる区隊長や班長には東京校からの転任者が多く、その方々が高木校長の「少年兵は純真であれ」の訓育方針のもと、それまでの経験を生かし「新たな教育の場での新たな教育造り」に意欲を燃やし、生徒もまた、此処を人生の修練道場と心得て、陸軍生徒としての品性の陶冶と通信技術の習得に猛訓練を展開しました。
そして、これに加えて当時の村松町の情勢です。村松は明治29年に新発田から歩兵30聯隊を迎えて以来、軍都としてほぼ半世紀に亘って軍との共存共栄を図ってきましたが、新たに少通校の生徒を受け入れるに当たって、恐らく町民の皆様は、その幼い少年達が必死に訓練に励む姿に、それまでの軍隊には見られなかった「健気さ」といったものを感じられたのではないでしようか。
この様子を、当時の新間は「11期生が、入校僅か1か月後の19年1月8日の陸軍始めに、村松練兵場の銀雪を踏み、その幼い肩に99式短小銃をしっかり担って、官民環視の中に堂々の閲兵、分列行進を行い、決戦態勢下の陸軍生徒の意気を示したことが印象的だった」と報じています。また、その頃は、多くの家庭に召集令状が届いていましたから、戦地に送った我が子、我が夫を思う気持ちを少年兵にだぶらせて、余計に親近感をお持ち頂けたように思います。この点、当時村松に居られた或るご婦人は、お気持ちを「少年兵の皆様がシベリア卸しの雪の吹き荒れる寒中、厳しい訓練をされていた姿が忘れられません。繰上げ卒業で幼さの残る11期生の皆様が村松駅頭から出征の時は、町中涙で千切れんばかりに日の丸の旗を振りお見送りしました。そして、後に悲惨な事実を知った時は、唯々涙するばかりでした」とお寄せ下さいました。
いずれにしても、村松少通校の生徒は幸せでした。こうした純朴な町民の皆様の温かいお気持ちに支えられて、村松には東京校とは一味違った官民一体となった環境が整えられ、それが成川茂男氏をしてシベリア抑留の苦しさに耐えさせ、また私共後輩に対しても多感な少年期の人格形成に大きく役立ってくれました。
そして、この床しい気風が現在にも引き継がれていたからこそ、冊子村松の庭訓を胸に」の刊行を契機に、それが当時の少年兵の思い出と繋がって、いち早く「守る会」を誕生させて頂けたのだと思います。また、慰霊碑が当地・村松公園に建てられたことも、結果的に見て極めて幸運だったと思っています。何故なら其処は日露戦役を記念して設けられた忠魂碑や忠霊塔も建っ「殉国の士を祀る聖域」であり、私共の慰霊碑も、これにお仲間入りすることが出来たからです。
一一一定めし、11期生の御霊も、今頃は先輩諸霊に温かく迎えられ、共々憩って居られることでしよう。