鎮魂・西海に、比島に、そしてシベリアへ 23
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鎮魂・西海に、比島に、そしてシベリアへ (編集者, 2012/10/26 7:59)
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終戦前夜、そしてシベリアヘ 井上隆晴 その4
シベリア回顧
入所して最初のシベリアの冬は想像以上に我々にとって大敵であった。死の世界を思わせる酷寒の大自然は一寸の容赦もなく我々の前に立ちふさがり、冷酷そのものである。日本人の多くが空腹と寒さにあえなくこの世を去ったのもむべなるかなである。
最初の冬は、大隊の大多数が伐採作業に従事した。直径lmもある唐松やモミの原始林で、二人用の鋸とタポール(手斧)で赤軍やソ連人が使うペーチカ用の薪を作る作業は大変な重労働である。寒さのため可能な限りのものを身に着けているから余計身体は自由に動かせない。
その伐採場の往復路は凍りっいた雪。道らしい道はない。
そして或る日、その往復路の途中に一っの変化が現れたのである。その後、毎日毎日4,50名の作業員が、長さ2m、幅1.5m、深さ1.5m位の穴を掘り続けているのだ。そして、その穴は、一方の端から一晩毎にどんどん跡形なく埋められている。・・。
或る朝、一人が指さして「あれは何だ」と叫んだ。一同が眼を遣ると、いつも 穴を掘る辺りの雪の上に黄色いものが山積みしてある。丁度ハニワの人形を無造作に積み上げたようだ。近づいて行くうちに、一瞬背筋が硬直した。同胞の死体である.. ! テルマ病院で亡くなった死体は丸裸にされ、冷凍人間のようにカチカチに凍ったままで夜のうちにソ連人囚人がトラックで運び、毎夜埋められていたのが、たまたまその日、穴が不足したのか我々の眼にとまってしまった。誰一人口きく者もなく重い足を伐採場に運ぶ。以来数回黄色の山を見たことがある。
このように、テルマ北部に眠る多くの同胞は、名も知られず、地下1.5m、万年氷の下に今もなお静かに横たわっていることだろう!!
ハバロスクとコムソモリスクの間の原生林の中にある村落テルマの収容所。この辺りの寒さは世界屈指と間く。
抑留2年目の厳冬。私は小隊員の半数14名を引率して夜間作業に出た。厳冬の然も夜の冷たさは表現の仕様がない。飯金の蓋で雪を溶かした水を飲めば唇に蓋が凍りつき、吐く息は眉に氷の玉を作る。焚火の煙は凍ったように淀んで動かず落ちてきた鼻水は氷の糸を引く。そんな時、偶々私は単身ソ連人の処に用事で行き、隊員の待っところへ引き返す途中、貴重な、将に貴重な拾い物をしたのである。
それは、雪路に累々とこばれていたジヤガイモである。ソ連では軍隊でも囚人も、抑留者も皆その日の食糧を配給所に取りに行く。夏は馬車で、冬は橇で。その橇がこぼしたものと思われた。辺りを見ても誰もいない。私はかってない敏捷さで残らずシユーバー(毛皮のオーバー)のポケっトにねじ込んだ。連絡に行った甲斐があった。足は軽い。隊員が焼いて食べる顔が日の前にちらつく。
程なく私は焚火の中にジャガイモを投げ込んだ。隊員は狂喜した。ジヤガイモーつがどれ程の貴重品か、それは、えんどう豆一粒を凍りついた雪路から鍬で掘り出して食べ、蛇を食べ、蛙を食べた抑留者のみが知ることかも知れない。皆は焼けるのを待った。私は得意であった・・・。
だが、その喜びも得意も、数分後にS上等兵の言葉であっけなく覆された。「小隊長!これはほんとの焼けくそだ」私は泣きながら笑った。隊員達は転げながら笑った。
貴重な品は馬糞だったのだ。シベリアのジャガイモは黒い土がついてカチカチ.. に凍り、馬糞もカチカチに凍る。昼間でも一寸見分けにくい。
氷のきしむ原生林の夜空に一段と高く隊員の爆笑が響いた。
(むらまつ誌より転載)
注 井上氏は広島県出身 20年3月卒業、満州電信第18連隊(チチハル西方)派遣、終戦後、シベリア抑留、24年7月復員