鎮魂・西海に、比島に、そしてシベリアへ 21
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鎮魂・西海に、比島に、そしてシベリアへ (編集者, 2012/10/26 7:59)
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終戦前夜、そしてシベリアヘ 井上隆晴 その2
2、自給自足
自給自足を実践するべく、ご多分に漏れず、此処でも農耕は盛んであった。まくわうり、じやがいも、玉ねぎ、大根、トマト等々、見事な収穫をあげた。肥沃な原野が殆ど手づかずの儘の姿で限りなく続いている。さすがに満州である。
兵舎の裏側の鶏舎からは毎日多くの鶏卵を得ていた。古年次兵の中には、殆ど専属のように農耕や養鶏に専念する者が各中隊にいた。
私も業間に、初年兵を引率してよく農耕作業に出た。その日も、例によって作業に精出していた。ふと見ると、広い畑の端に渡邊連隊長が単身で姿を現された。
状況報告する私の顔を、あの温かい笑顔で見っめながら「井上、君は満州の地が合っているようだナ。体に気を付けて、しっかり頑張ってくれよ」と声を掛けられた。紅潮した私の顔には、青春のシンボルが存在を誇示するように賑やかに跛雇していた。日を経ずして連隊長は、ハルピン方面の某部隊に転任された。
3、満を持して
来るべき日に備えて、日々の教育訓練も熾烈を極めた。
屯営から約6 km東南の自土山(パイトザン)を目指す戦闘訓練も厳しいものであった。斥候長となり過酷な訓練に耐えた。夜間訓練も実戦的なものであった。
訓練は日々厳しさを増しつつ過ぎて行く。
20年7月頃、中隊の初年兵を主体とした対向通信演習が行われた。トルチハ西北15 km、十八里站に出先通信所を開設することになり、私も桑原少尉と共に出先に付いた。新設連隊では、本物の送受信が出来る者は殆どいなかった。連隊には、我が少通出身者は、8期の池田軍曹、9期の山岡、多羅尾軍曹、10期3名と私達11期7名(うち2名は通化へ分遣)といった状況である。
15時、通信所開設、初年兵たちの見守る中、私が電鍵をとった。広大な大陸を飛び交う電波が受話器に飛び込んだ。その中へ対所の電波を掴んだとき、皆の中に驚異と安堵の声が流れた。交信は成功した。幸せであった。
夕方、状況が一段落した時、私は緊張をほぐすために500m程離れた町外れの忠霊塔を訪ねた。沖、横川両勇士のものである。特殊任務を担って敵中深く潜入し粒々辛苦、よくその任を果たしたが、終に発覚した終焉の地である。搭は小さな集落には不釣り合いなもので、高さ30m余、頂上は一辺10mほどの、芝生に覆われた土盛りの上に搭は建っていた。あの赤い大きな太陽が、正に地平の彼方に沈まんとし、逆光の中に聳える塔は実に堂々たるもので、当局の力の入れようが偲ばれた。
ふと横笛が流れてきた。哀調を帯びたメロデーは、やけに私を印象づけるものであった。現地の「別れの曲」である。やがて現れた若い男女は、ゆっくりと塔への長い石段を登り始めた。時局柄、不似合いな情景であったが、時恰も根こそぎ動員の行われた頃である。満人であろう彼らにも何らかの「別れ」の場であったかも知れない。私は頂上へ上がるのを断念して上がり口の建設趣意書を読み終えて、その場で深々と頭を下げた。黄昏の中の、沖、横川烈士の塔は、私に強い強い黙示を垂れたのである。
夜間の演習では、主に混信分離に力点を置いた。無数の電波の中から相手電波を探し出す動作に初年兵たちは眼を輝かせながら取り組み複雑な電波の世界を体験したのであった。満を持してその秋に備えなければならない。
烈々の士気 見よ歩武を 野行き山行き土に臥し
寒熱何ぞ死を越えて 挺身血湧く真男児 風雲に侍す関東軍