鎮魂・西海に、比島に、そしてシベリアへ 29
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編集者
居住地: メロウ倶楽部
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村松町民と少通生の心の交流 その3
(お宅様との思い出)
私がお宅様と近付きになれたのは19年の2月頃だったと思います。
その日は月1回の外出日でした。普段ですと営門から真直ぐに町の方に向かうのですが、その日に限って営門から右に曲がり、こっちの細い道は如何なっているのかな、など好奇心半分で歩いて居ましたら、頬かぶりしたお年寄りが屋根に上って危なげな恰好で雪下ろしをしていたのです。私は冗談に「おじいちゃん、屋根から落ちるなよ」と言いましたら、「そんなら、兵隊さんが代ってくれるか?」と言葉が返ってきました。
町へ出ても映画を見るだけだし、これも人助けのうちと思って、代って屋根にの上ったのがお付き合いの始めでした。雪下ろしが終わってから、腹一杯のご馳走を頂きながら伺いましたら「息子はお前さんと同じに召集されて戦地に行っているし、じじ、ばばと嫁で何とか頑張るしかないんだ」とのおじいさんの話。そこで「私で良ければ外出の時は出来るだけお寄りするから」とお約束しました。
そのあと、何度寄らせて頂いたか思い出せませんが、お寄りするたびにお婆ちゃんが、我が子が来たように喜んでくれて、「何もないけど腹一杯食べてゆけ」と、色々ご馳走を出して頂きました。当時19歳の私にとって、隊内の食事は不足気味でしたので、軍靴の紐をしやがんでは結べない程食べさせて頂けるお宅は真に有難く、お宅が隊内の誰にも教えない私一人の秘密の場所になりました。
釧路の両親にはお世話になっていることを知らせしなければなりませんが、隊内から手紙を書くことも出来ず、何回日かにお寄りした時に、お宅からお宅様の名前を使って手紙を出したことを覚えています(当時は隊内から手紙を出しますと検閲制度があって皆判ってしまいますし、お宅様から成川の名前で出しますと、局の方で分ってしまう、そんな時代でした)。お寄りした中で、今でも心に残っているのは、ハっちゃん(初江さん)が良く 回らない舌で「おじちゃんアガンナネアガンナネ」と言いながら私の胡坐の中に入って来てくれたことです(私の一番下の妹が当時3歳位でしたからハっちゃんが懐いてくれるのが、とても嬉しかったのでした。
戦死した大場一美君を、私が秘密にしていたお宅様に連れて行ったのは何の為だったのかよく思い出せませんでしたが、先日お邪魔した時、昔の儘のはざ掛けの木立を見て、秋の稲刈りのとき、おじいちやんから「誰か仲の良い友達と一緒に来てくれんか」と頼まれて、大場君を連れて行ったことを思い出しました。
畑仕事などしたことのない二人でしたが、若さだけが取り柄で頑張りました。大場君の曰く「兵舎のこんな近くにこんな良い方が住んでいてお付き合いさせて頂いているお前は幸せ者だなあ、今度から外出の時は誘ってくれよ」と。それからは二人だけの秘密の場所として誰にも知らせませんでした。
20年3月に卒業となり、配属前の休暇が出て釧路に帰りましたが、当時では現地でも中々手に入らなかった鮭の半身を両親が何処からか見っけて来てくれました。「お世話になった波多さんにお土産に」と出された時は、如何して持って行こうかと悩みました。思案の末、油紙に包んで下着にくるむ細工をして、トランクの一番下に隠し、これだけは何としてでもお届けしなければ、と運んできました。
連絡船では荷物検査がありましたが、こちらが兵士だったためか、細かくは調べられず、無事通過した時は、本当にホっとした気分でした。
お宅様の玄関を開ける、お土産を差し出す。帰営の門限はギリギリと言うことで、ゆっくりお別れの挨拶も出来ないまま、駆け足で営門をくぐりました。
あれから、35年、気にかけながらも中々お会いできず、今回、念願を果たすことが出来て本当に安心致しました。
昔のお嫁さんと言っても、当時のことを考えますと、私が19歳でしたから、4,5歳上のお姉さんだったと思いますし、お名前が中々思い出せなくて記憶では花子さんか、ハナさんでなかったかと思っております。
先日お邪魔しました時は、初江様にはお会い出来ませんでしたが、余りの懐かしさに話ばかりしていて、昔我が子のように可愛がって頂いたおじいちやんやお婆ちゃんに線香をお上げして来なかったことが悔やまれてなりません。また、帰り際には、このように一人前になった私にお心遣いまで頂き、本当に嬉しく感じました。改めて御礼を申し上げます。
以上、思い違いがあるかも知れませんが、悪い頭を振り振り思い出すままに、長い手紙を差し上げました。冒頭にも書きましたが、これを契機に私の達者である限り昔の様なお付き合いをさせて頂きたく心からお願い申し上げます。
(後略)
注
大場一美氏埼玉県出身、昭和19年11月15日、繰上げ卒業。南方に向かう途中、秋津丸に乗船し、五島列島沖にて戦没。
成川茂男氏北海道出身、昭和20年3月、卒業。奉天第540教育通信隊に勤務。終戦後、ソ連の収容所で採炭等の労働に従事、栄養失調等に罹患。23年9月帰国。帰国後も脳疾患に悩み、平成16年9月没。