鎮魂・西海に、比島に、そしてシベリアへ 27
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鎮魂・西海に、比島に、そしてシベリアへ (編集者, 2012/10/26 7:59)
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編集者
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村松町民と少通生の心の交流 その1
それは、昨秋、「守る会」が催してくれた戦没少通兵の慰霊祭当日のことです。
式典を終え、直会(なおらい・祭事の後に催す宴会のこと)に移るべく席を立とうとした私は、ふと、一人の中年のご婦人に呼び止められました。
「私は、波多ハナの娘で・・・」一一一それだけで、私には直感出来ました。何故なら波多ハナ様一一一この方は先年私共が冊子「村松の庭訓を胸に」を刊行した時、真っ先にお手紙を下さった方で、私自身、その後如何して居られるか気懸りになっていたからです。
そしてその際、ご婦人(ハナ様のご長女で初江様)が云われるのには、「昨年母が亡くなって、その遺品を整理していたところ、一つの文箱の中に、冊子の刊行を報じた新聞記事と一緒に古びた手紙が大事そうに収めてあるのが見っかった。開けてみると、それは昔、私共一家が親しくしていた元少通生からの手紙であり、それだけに、このまま処分してしまうのは忍びず、また一方、この手紙はあの時代を写した一つの資料になりそうな気がしたので、お預けするから、宜しく検討して判断して欲しい」とのことでした。
其処で私は、帰宅後じっくり読ませて頂きましたが、其処からは、先の太平洋戦争下の村松に於ける少通生の一面と、これを温かく迎えて下さった住民のお宅との心の交流の様子が極めて具体的に読み取ることが出来、正に数少ない貴重な資料だと判断しました。
ついては、先ず、以下に、この発端になった、波多ハナ様から私が頂いた手紙と、35年振りに念願の再会を果たされた成川茂男氏の波多ハナ様に宛てた感謝の手紙を転載させて頂きます。
○波多ハナ様より私(大口)の許へ(平成21年1月9日付)
前略突然のお手紙をお許しください。12月27日付・新潟日報の「少年兵の悲劇後世に」を読みました。そして、今日1月9日、村松郷土資料館で冊子を頂きました。少年兵の思い出が私にあり、懐かしさの余リペンを執りました。
遠い昔、私が嫁いできたばかりの頃、昭和18年の暮れだったか、19年の2,3月頃だったのか、義父が屋根の雪下ろしをしていました。其処に通りかかった人が「お爺さん、大変だね」と声を掛けました。義父が「そう思ったら手伝ってくれ」と言ったら「よしきた」と言って手伝ってくれました。その人が「通信兵」だったのです。北海道出身で成川茂男さんです。
成川さんは、その後、もう一人、通信兵の人を連れて2人で来るようになりました。オオバさんという人です。私の家は農家だったので、お礼に食事をしてもらいました。喜んでいっぱい食べて行かれました。生まれたばかりの私の長女をあやしたりしてくれました。その後、二人が戦地に向かわれ、船が沈んだことを知りました。お二人は戦死したに違いないと思っておりました。
55年の秋だったか、村松の警察から電話があり、貴女の家を訪ねて行く人がいる、成川さんという人だけど、家を教えても良いか、ということでした。まさか.. と思いました。成川さんが北海道から訪ねて来られたのです。生きていらしたのです。もう一人のオオバさんは亡くなられたそうです。成川さんは「記憶喪失になり、漸く村松を思い出し、訪ねてきたのだ」と説明してくれました。夢のような再会でした。「あの時、赤ちゃんがいたけど、如何してる?」と私の長女のことも尋ねてくれました。成川さんはその日のうちに北海道に帰って行かれました。それから手紙や年賀状のやり取りが始まりました。成川さんからは、北海道のジヤガイモ、カボチャなどが毎年送られてきましたが、平成16年9月4日亡くなられたと奥様からお便りがありました。成川さんのご家族のご住所は、
(中略)
私は大正9年生れで、随分歳をとりました。あの当時の事が色々思い出されます。冊子を読んで胸が一杯になりました。亡くなられた少年兵を思うと、今でも涙が出ます。私の夫も、長女の1歳の誕生日の翌日、20年2月28日に戦死しました。長女は中学の英語教師になって、もう退職しましたが、成川さんとは年賀状のやり取りをしていました。
良い冊子を作って下さいまして、故人もうかばれると思います。有難うございました。私も御礼申し上げます。寒さに向かってお体を大切に。かしこ