鎮魂・西海に、比島に、そしてシベリアへ 25
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村松少通校・高木校長を偲んで 岡本勝造 その1
昭和60年のある日、飯田橋のホテル・エドモンドに於いて、教え子の藤田真之助東京逓信病院名誉院長が音頭をとり、恩師・高木正賞先生を囲んで一席が設けられた。それは今回が初めてではなく、戦後間もなく高木先生を囲み、新橋の寿司屋で一席が設けられ、その後も何回か謝恩の会が開かれていたようだ。
この集いというのは、福島県の旧制白河中学の同窓生の集いであり、其処に恩師として招待される高木先生は異色の存在であった。
それは、大正末期から昭和の初頭にかけて、軍縮のあおりを受けて師団の数が削減され、多数の少壮将校が職を失う危機にさらされ、窮余の策として配属将校という制度が設けられ、高木中尉も大正14年、同校に赴任したのである。
当時の風潮として、一般教科の先生ではなく、武骨で兎角敬遠されがちな配属将校の教官が、恩師として敬慕されたのは何故であろうか。軍服を着て長剣を帯びて生徒達を指導されたのにも拘わらず、温情を以て接しられたからである。腕白小僧たちを叱られる時も、慈悲深い気持ちが脈々と伝わってきたからだという。
先生は軍人というよりも立派な教育者としての資質を備えられていたのだと教え子達は言う。そして辞任の時の挨拶が真に簡明、「気を付けて前へ進め」だったという。ここに培われた生徒と恩師の強い絆がしっかりと結ばれ、半世紀もの永い間、暖かい交流が続けられたのだと思う。
その後の軍歴は殆ど副官勤務が多く、今村均、山下奉文40旅団長、川岸、深沢20師団長、また関東軍高級副官として植田、梅津関東軍司令官に仕え、満州事変の折は赫々たる武勲を収めた功により賞詞を受ける第2師団長・多門二郎中将に随行して官中に参内し、天皇陛下に拝謁を仰せつかり、師団長が軍状を奏上申し上げたとの事であるが、面目躍如として副官名利に尽きたものと思われた。
その後、秋田編成の歩兵223連隊長として出陣し、北支河南省の戦闘に於いて左大腿部貫通銃創の重傷を受けながら、聯隊本部に下がった後も敢然として戦闘指揮をとられたという。其の責任感と剛勇果断の行動が更なる信望を得たという。
野戦病院を経てやがて内地の病院に後送され、1年に亘る療養生活の後、昭和18年11月、村松に新設された村松陸軍少年通信兵学校(村松少通校)に赴任され私達少年兵の教育に情熱を傾けられた。
生徒を直接指導される立場におられなかったが、その教育の理念は、旧制白河中学の時と同様、秋霜烈日の厳しさの中に、燦々たる陽光のような温情と慈父の如き寛容さをもって薫陶され、「人を殴って教育するのは真の教育ではない」と申され、私的制裁を固く禁じられた。
やがて敗色の濃くなった南方戦線に向かって繰上げ卒業して征途についた200名を超す少年兵が五島列島沖、済州島沖において、敵潜水艦の魚雷攻撃を受けて輸送船と共に水漬く屍となられたが、この訃報に接した高木校長は、悲歎にくれ苦悶の日々を過ごされ、「軍の命令とは言え、年端も行かない子供たちを、繰上げ卒業させてまで出陣させたくはなかった」と述懐しておられたという。
戦後、有志相図り、村松公園の台地に戦没少通兵の慰霊碑を建立したが、高木校長は建立基金と慰霊祭費に多額の浄財を寄せられ、5年に1度の慰霊祭には、はるばる九州の地より奥様同伴で臨席され、年若くして国難に殉じられた少年兵の御霊に、追悼の祈りを捧げられた。そして、ご自宅に於いては朝な夕なに少通兵のブロンズ像に御霊の冥福を祈って居られたという。
復員後は山畑を拓き、邸に接する畠で野菜を栽培し、鶏を飼って余生を送っておられたが、昭和40年代は少年の人格形成に最も適した方と目された校長は、請われて出身地の星野村矢部村組合立高校寮の舎監として、少年と起居を共にされたが、責任観念や奉仕的精神の欠如した現代気質の少年の啓発指導には随分と苦労されたようである。