特攻インタビュー(第2回) その29
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陸軍航空特攻 中村 真 氏
◆土民に救助されそのまま捕虜に(2)
--------銃殺にならなくて良かったですね。奥の屯所に連行されたのは中村さん一人だったのでしょうか?
中村‥そこにはその日のうちに海軍の偵察機の2人、翌日になって私らの隊長機の通信士だった出納軍曹、陸軍の偵察機の2人、歩兵の上等兵が1人と、次々と連行されて来た。あと以前からこの屯所にいた陸軍の液冷戦闘機(編者注・三式戦闘機「飛燕」と思われる)乗りだったという男、合計8人くらい、捕虜になったのがあちこちからその晩集められた。みんな不時着や偵察に出て捕まったそうだ。
陸軍の偵察機の2人のうち、偵察員が尋問で話が合わないという理由で銃殺されてしまった。彼は背丈の大きいキリッとしたハンサムな顔立ちだったが、不時着のショックで顔面を打ったらしく、両眼が真っ赤に充血していたな。奥の屯所に連行されなかった河井や足立もそうだけど、どうやら負傷している捕虜は殺してしまうようだった。それっきり河井と足立の姿を見ていないんだ。後で奥の屯所に来た海軍の操縦士の話では、河井と足立らしき二人がゲリラに連れられて、ゲリラの一人は銃、ゲリラの一人はスコップを担いで、一緒にどこかへ行ったのを見たというんだね。オーストラリアの捕虜収容所で、レイテ島付近のアメリカ軍の野戦病院に収容されてた奴とかから情報を集めてみたけど、そういう者は居なかったということだった。2人はケガをしていたので、やはり処刑されたのかなと思うね。
奥の屯所には2週間くらいはいたと思うね。出撃が14日で、クリスマスのお祝いをゲリラたちがやっていたから、10日以上は経っていたはずだ。日中はなんということもなかったけど、夜になって眠るときには、逃亡しないようにニッパハウスの竹床の上に、バンザイをした形で手足を丸太ん棒に足首と手首を縛り付けられ、仰向けに寝かされたね。ここでも不寝番が自動小銃を持って見張っていたよ。夜中に小便がしたくなったら、不寝番に向かって大声で「ションベン!」と叫ぶと、私のチンポコを引っ張り出し、大の字になっている体を裏返してくれるので、竹床の隙間から床下に用を足すんだ。下は砂地なのできれいに吸い取ってしまう。そのときは「今度ここへ来たら、絶対爆撃してやるぞ!」と(笑)、そういうふうに思ったね。風呂はすぐそばを流れる川で水浴びをしてた。川の水は茶色できれいな水ではなかったし、ワニがいるとゲリラが言ってたよ。川岸の木の枝には大きなトカゲがとまっていた。
ゲリラの兵隊は、いつも裸足なんだよ。背が小さくて訓練っていうと竹の筒ですよ。このくらいの(手振りで)小銃の長さくらいの竹の筒を持ってね、こっちにゲリラの下士官がいて英語で号令をかけると、バッハッ!と竹の筒を担いで下ろしたりね。行進するのも、みんな裸足だから。そういうゲリラ兵だったから、私らと仲良くなるのも早かったですよ。下士官が小屋の中からその土民を集めて、「マン!エクササイズ!ワン・ツウ・スリー・フォー!ワン・ツー・スリー・フォーー」なんてやって、こっちも一緒になって体操やったり(笑)、そんなことをやって過ごしていました。
私らはもう今日は何日なのか、今は何時なのかなどはどうでもよくなったていたね、いつ死ぬか分からない身であれば、死ぬまで生きてやろうというところだ。ゲリラや土民たちとも仲良しになり、彼らも私らの頭髪を刈ってくれたり、ガラスの破片でヒゲを剃ってくれたりしました。海岸に出て、この島(ネグロス島)の多分バコラドの友軍基地を爆撃に行くらしいアメリカ軍のコンソリ爆撃機(B-24) の大編隊を一緒に眺めたりしていました。
--------〝フィリピン人は敵″という意識がなかったってことですね。
中村‥そうです。だいたい我々がフィリピン人と戦っているという意識は最初からないんだから。本当の敵はアメリカだしね。だからそんなことで、ただ助かったっていう意識は、ホントないよね。オーストラリアの捕虜収容所に行ってもそうでしたね。助かったという意識はなかった。その前にホーランジャ(現在、西部ニューギニアのジャヤプラ)の捕虜収容所にいたんだけど、そこは大規模なもんで、ジャングルを切り開いて有刺鉄線の柵を張り巡らせた中に、大きなニッパハウスが幾棟も建てられていて、真っ黒に日焼けした日本軍捕虜が、元気な者もそうでない者もウジャウジャといたよ。こんなに大勢の捕虜がいたこと自体が驚きだったけど、その連中が元気に飯を炊いたりしているのを見て二度びっくりだったね。だいたい、日本軍には戦陣訓(せんじんくん)っていうのがあって、"生きて虜囚の辱めを受けず。死して罪禍の汚名を残すことなかれ″っていうことが書いてあったでしょ。有り難きご託宣だけど、そんなものクソ喰らえ!のバイタリティだよ。戦陣訓だけなんだよね、何かこう派手にクローズアップされて、いろんなことが語られているのは…。