特攻インタビュー(第2回) その30
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陸軍航空特攻 中村 真 氏
◆オーストラリアの捕虜収容所で終戦(1)
--------中村さんはオーストラリアの捕虜収容所で終戦を迎えられたことになるのですが、そのときの心境は今思い起こすといかがでしたでしょうか?
中村‥終戦のときは収容所で「日本が負けた」っていう情報だけですからね。"ジャパン・サレンダー〟 の見出しが出てる新聞を持ってきたオーストラリアの兵隊が喜んでいてね、「サレンダーつて何だ?」 って聞いたら「無条件降伏だ」なんて感じでしたよ。日本が負ける気はしていたんですよ、本当はね。フィリピンで捕虜になって「俺が墜落するようじゃ、これは日本は負けるな」と、そう思っていましたね。それから今度はアメリカ軍に連れられて、ホーランジャやオーストラリアの捕虜収容所や飛行場なんかに着陸してみると、もう凄い物量だもんね。日本じゃちょっと考えられないような、たくさんの物資が敵さんにはワイワイある。それでも、アメリカの雑誌で『ライフ』っていう雑誌があってね、オーストラリアの兵隊がそれ見ながら「うん、こうだこうだ」って話してるんだけど、最初の頃は紙が厚かったんですよ。それがだんだん捕虜生活の終わりの頃になってきたら、その兵隊が持ってくる『ライフ』が紙がうんと薄くなってきた。だから「あ!これは敵も物資がちょっと不足してきてるんじゃないのか」って。「よし!俺もうんと飯を食らって、敵の糧秣を減らしてやろう!」ってなことを言ったことがありましたよ(笑)。
--------昭和16年に戦陣訓という訓令が示達されて、捕虜のことについてもいろいろ書かれていたりするんですけれども、やっぱり捕虜になったことについて中村さんにとっての特別な思いは、今でもあるのでしょうか?
中村‥たしかに今も心のどこかに引っ掛かっているね。だから無理に天皇陛下が終戦の詔勅(玉音放送)なんていうのをラジオで放送して、敵に降参してるんだと全軍に公布したんです。日本国民全員が捕虜なんだと思っています。私は終戦後、32年間警察官をやっていましたが、昭和27年の条約ができるまでは、全部GHQの指令で警察も動くわけですよ。丸の内の交差点で進駐軍の憲兵(MP)と一緒になって、笛でピッピーツなんて手振りで踊るような交通整理もやりました。
--------他の戦争体験された方の話を伺うと、例えば特攻隊にいた方とか、シベリアで抑留された方が日本に帰ってきてから、特攻隊に前にいたっていうのが判ると「あいつ、特攻崩れだから」って嫌がられたり、シベリア帰りだと分かると「あいつ、アカだから」っていう風で、すごく虐めらたとか、それが判ると仕事をクビなったりして、そういうことは絶対に人に言えなかったっていう話は、よく聞きますけど…それは、やっぱり分かるって気がしますでしょうか?
中村‥まあ、そうだね。私は司法保護団体の伯父のところに行って、1年か2年くらい勤めたのかな。すると少年審判所の所長が視察に来て、私の伯父に「あなたのところの職員には、非常に目つきの悪い男が一人いる」と言うことを、伯父に言ったそうです。そしたら伯父がね、「ああ、あれは私の甥で、空軍の飛行機乗りで、特攻隊上がりだから目つきも悪いんだろうから、それは心配ないから」というようなことを言ったって、伯父が言ってました。特攻崩れじゃなくても、そういう態度があったのかも分からないね。「野郎、どうにでも来やがれー」っていうようなね。オーストラリアから内地へ帰る途中の引き揚げ船の連中が、ろくに食料を出さず横流ししているのを知って、これはおかしいとみんなで一斉に蜂起し、引き揚げ船を分捕ってオーストラリアから積んだ米を全部食ってしまった。あれは一番気持ち良かったね!そしたら大阪商船に勤めていた奴が文句言ってきたよ。それで、第二台海丸っていう引き揚げ船で支給するものをネコババしていい思いした事実があるかどうか調べさせてくれなんて言って来たよ。「おう、調べてくれ」って言ったの。とんでもない野郎がいやがるから(笑)。