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表参道が燃えた日(抜粋)-赤坂・麻布・渋谷区以外・2

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通常 表参道が燃えた日(抜粋)-赤坂・麻布・渋谷区以外・2

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2009/6/28 21:15
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 帝都大空襲の思い出
        岩原 さかえ(八十六歳)



 当時私は両親と姉妹三人の一家で、田舎に縁故もないため、疎開もせず、止むなく東京に住み、そのつど恐ろしい思いをしながら奇跡的に罹災をまぬがれた。

 明治神宮参道の惨禍に話のおよぶ前提として、B29による帝都無差別絨毯爆撃の最初からのべることにしたい。

 三月十日、私達は赤坂区の青山北町に住んでいた。電車通りから二分の横町で、梅窓院や、外苑、参道の近くで、そろそろ真白いこぶしや木蓮の咲くころであった。戦争の情報は大本営発表をラジオで聞くだけ、防空演習でバケツリレーや縄製の火叩き訓練はしていても、まさかあんな大空襲で、深夜突然起こされるとは思っていなかった。警報と同時に空は真赤、物干しにのぼって東をのぞむと、阿鼻叫喚(あびきょうかん)の音とともにふきあがる火の粉が強い風にのって頭上に落ちてくるではないか。これが本当の空襲というものか、と驚き呆れ、庭の小さな防空壕で念仏をとなえたりアーメンの祈りをしたりしたが、この際どの神にたよったらよいか、疑った。飛行機の唸り声は、近くなったり遠くなったり、防空壕を出たり入ったり、非常な危険を感じて、身のおきどころなくうろうろしているうちに、夜が明けて静かになっていった。私達は助かったが、朝の表通りは、下町で焼け出された人々が鍋釜をさげて渋谷をさして行列で歩いていった。睫毛(まつげ)まで焼かれ、焦げた着物をひきずって歩く姿はこの世のものとはみえなかったが、不思議なことに「自分たちは助かった」という誇りのせいか、にこにこ笑っている人がいた。死人の山を見てきた人々だったことは、後で知った。

 この空襲で十万人が死んだことも私達は知らされなかった。近所の防護団員が駆り出されて羅災地の死体処理をシャベルでトラックに積み上げる仕事をしてきたと小声でしゃべってくれた。これは秘密だぞ、とおそろしい顔で言ってくれたのが唯一の情報であった。

 当時私は麻布の六本木にある東洋英和女学院につとめ、中の妹は丸の内にある三菱商事会社につとめ、末の妹は杉並区西荻窪にある東京女子大学の学生であった。三月十日の空襲で、妹は急遽東京女子大学の寮に疎開した。両親は小田急沿線の成城学園の知人の一室に衣類や炊事道具を運び出すことにした。そんなことぐらいが一家の疎開であった。

 つぎのB29の来襲は四月二十日前後に二回あり、蒲田・川崎を中心とする工業地帯が襲われた。敵機は初めの目的を終了すると帰りしなに東京のあちこちに任意に焼夷弾や爆弾を落としていったから、今度はやられると母がおそれ、どうしても安全なところに逃げるといいだした。母は病気で歩けないから私と妹に交代で負(おぶ)ってくれというのにはまいった。父は勤務先の当直で不在、母がどうして気弱になったのか。私達は途方にくれたが、背中の母の指図にしたがって辿りついたのが、神宮参道の銀行の石段であった。参道はひろびろして人影もなく、なるほどここなら燃えるものもなく安全にちがいないと、姉妹は汗をぬぐいながら母の識見に感謝した。こんども家は罹災をまぬがれた。

 疎開する人々が急増し、表通りは引越車の行列である。いよいよここも危ないというので、父の知人が世田谷区の井の頭線沿線の下北沢に空き家を見つけてくれた。軍人一家の疎開で、留守番を探していたという。私達は大八車を借りてきて、大事なピアノをはじめ山の如き書籍・家財道具・箪笥・風呂桶まで、何度も赤坂と下北沢を往復して移転を完了して一週間たったころ、五月二十五日の大空襲がやってきた。今度は宮城・赤坂御所をはじめ山の手の住宅地、渋谷・品川・大森・世田谷等々、絨毯爆撃は同じこと、この時も母はダメ人間で、どこかに逃げるという。隣組も逃げてしまったのだ。このとき父は屋根の上にのぼって風向きを見ていたが、類焼の火はもうこっちにはやってこないから逃げるなと母を叱ったのは偉かった。日頃武士の娘などといばっていたのに、女はいざというときに腰抜けだと思った。翌日私は下北沢から淡島神社を経て歩き出したが、一望千里の焼け野が原は家のすぐそばから始まった。お米が黒こげになった配給所のそばで、髪の毛を焼いた女が発狂していた。ゆけどもゆけども廃墟である。共に歩く妹と何を話したろうか。道玄坂をのぼり渋谷をへ、宮益坂にさしかかると、都電の車庫から出てきた数台の電車が白骨化してならんでいた。目の前の電信柱が火をふいて倒れてきても「アラッ」と言って飛びのくだけ。

 青山学院は住んでいたことがあるのでなつかしいが、鉄筋の校舎だけ残り木製住宅は皆焼け、間島記念図書館の前の空き地に木炭化した人がころがっていた。

 学生寮に入っていた学生の少年で、消火活動に入るべく訓練どおりに整列して番号をかけている最中に直撃されたとのこと。私達は人間の焼けた匂いに鼻をおおいながら歩いていった。青山の屋敷町にはマントルピースがそこかしこに焼け残り、サンタクロースの入るべき煙突だけがそびえていた。また沢山のお蔵の窓から火がふき出ていた。青山・霞町・材木町と歩いてきても、目標となる建物がないので勤め先への道に迷ってしまう。

 驚き呆れ、絶望のうちに四時間かかってたどりついた職場に、生徒たちが私のところへ集まってきた。コクテル堂の白松久枝さんは砂山にもぐって助かったという。飯倉の深山愛子さんは六つあったお蔵に皆火が入って焼けてしまったという。ほかにもそれぞれ何か言ったのだろうが、私も逆上していて頭に残っていない。そしてついこの間の空襲で母を負(おぶ)って逃げた表参道の銀行の石段で折りかさなって人が焼け死んだこと、表参道は火のトンネルになって群衆を一舐めにしたことなどを知った。

 空襲があっても人は食べ物をもとめて買い出しにも行かなければならないし、お勤めにも行かなければならない。焼け野が原の徒歩出勤の朝、渋谷のあたりが暗くなり、現在横浜がB29に爆撃されているとのことであったが、ついでにP51という敵機がやってきて、あわてて逃げ込んだ防空壕のトタン屋根に射撃弾の音を聞いた恐ろしさも忘れられない。

 宮益坂のミルクホールの一家が防空壕で蒸し焼きになったこと、私の受け持ちの沢池好江さんが祖母さんと青山学院の石塀の脇の防火用水の中で死んだことなど、すぐには判明しなかった。徒歩通勤の途上、シャベルで死人を穴から掘り出している光景にも何度かあった。女や子供や老人や病人など非戦闘員が何万と殺され、広島や長崎に原爆を落とし、八月十四日にも地方都市を破滅させたアメリカの罪は未来永劫に記録しなければならない。

 (世田谷区)

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