Re: 表参道が燃えた日(抜粋)-あとがきにかえて
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表参道が燃えた日(抜粋)-山の手大空襲の体験記- (編集者, 2009/5/17 8:49)
- 表参道が燃えた日(抜粋)-目次 (編集者, 2009/5/17 9:19)
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- 表参道が燃えた日(抜粋)-青山通り沿い・2 (編集者, 2009/5/17 9:51)
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- 表参道が燃えた日(抜粋)-原宿・穏田・表参道・6 (編集者, 2009/5/28 20:26)
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- 表参道が燃えた日(抜粋)-青山南町五、六丁目南側・高樹町・1 (編集者, 2009/6/2 8:10)
- 表参道が燃えた日(抜粋)-青山南町五、六丁目南側・高樹町・2 (編集者, 2009/6/3 7:47)
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- 表参道が燃えた日(抜粋)-渋谷区金王町・美竹町・青葉町・1 (編集者, 2009/6/14 8:32)
- 表参道が燃えた日(抜粋)-渋谷区金王町・美竹町・青葉町・2 (編集者, 2009/6/15 8:17)
- 表参道が燃えた日(抜粋)-赤坂・麻布・渋谷区以外・1 (編集者, 2009/6/27 20:53)
- 表参道が燃えた日(抜粋)-赤坂・麻布・渋谷区以外・2 (編集者, 2009/6/28 21:15)
- 表参道が燃えた日(抜粋)-赤坂・麻布・渋谷区以外・3 (編集者, 2009/6/29 8:02)
- Re: 表参道が燃えた日(抜粋)-あとがきにかえて (編集者, 2009/6/30 10:53)
- 表参道が燃えた日(抜粋)-付録・1- (編集者, 2009/7/2 19:53)
- 表参道が燃えた日(抜粋)-付録・2- (編集者, 2009/7/3 14:57)
- 表参道が燃えた日(抜粋)-付録・3- (編集者, 2009/7/4 19:38)
- 表参道が燃えた日(抜粋)-付録・4- (編集者, 2009/7/5 8:14)
- 表参道が燃えた日(抜粋)-付録・5- (編集者, 2009/7/6 16:54)
- 表参道が燃えた日(抜粋)-付録・6- (編集者, 2009/7/6 16:58)
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広島原爆被災の記
KS
KS 画
昭和二十年三月十日、東京の下町は大空襲を受けて、全域にわたって大火災が起こり、焼け野原となり、多くの犠牲者が出た。惨状はまさに地獄そのものであった。実はこの日、麻布霞町付近にもいくつかの焼夷弾が落とされ火災が起きて多少の被害がでた。私は当時十五歳の中学生だったが、B29のうなるような爆音と焼夷弾の落ちてくる音は未だに耳にこびりついている。
身近に危険が迫って来て、両親も決断せざるを得なくなった。弟と私は、兵士としてこれから戦わなければならぬ大切な人的資源であるから、安全なところに疎開した方がよいということになった。両親は東京に仕事があるし、姉も五年の約束で入った女学校が四年で卒業となり、海軍の施設で徴用工として働いていたので東京に残り、私たち二人は父の親戚のいる広島に疎開することになった。
親戚の家は広島市街から約八キロメートル北の農村にあった。現在では広島市のベッドタウンになってしまったが、あのころは田圃や畑ばかりの静かな村であった。我々二人は県立廣島一中の三年と二年に編入させてもらうことができた。しかし、授業はなく勤労動員で広島市内の小さな工場で旋盤工として働くことになった。朝八時の朝礼から昼休みを挟んで五時まで、爆弾の信管作りに励んだ。と言っても実際に私が作っていたのは、何の変哲もない親指くらいの円筒であった。それがどのような働きをするのかは教えてもらえなかった。四月に初めて工場に行った頃は、まだ寒くて暖房のない工場での作業は手がかじかんで辛かったが、四か月もたつと仕事にも慣れて生活を楽しむ余裕もできてきた。
そして、八月六日、歴史に類を見ない戦争犯罪が行われた。八時の朝礼が終わって木造平屋建て工場で旋盤の前に立った直後、稲妻か超強力な写真のフラッシュのような光を見た。工場内は、機械やモーターの騒音がひどく、爆発音は聞こえなかった。直後に爆風で舞い上がったほこりであたりは真っ暗になった。ガラス窓は明けられており、爆風の方向と平行であったのは幸運だった。そうでなければ、我々は体中にガラスの破片が刺さり大変なことになったはずだ。全員外見上ほとんど無傷だったが、D君だけは、天井から落ちてきたモーターの主軸にあたって意識を失っていた。後で、その二、三日後に彼は亡くなったと聞いた。
埃が少し静まったところで、壊れた壁や、ぶら下がった天井をよけながら外へ出た。外で働いていた同級生は熱線で火傷をしていた。近所の家がつぶれておばあさんが下敷きになっていたので、壊れた建具などをどけて何とか助け出すことが出来た。また、工場のすぐ近くにあった、広島市立女学校校舎の板壁がくすぶっているのが見つかり、手押しポンプを引き出して消そうとしたのだが、水圧が足らず届かなかった。そこで、はしごをかけてバケツリレーで何とか消し止めた。
爆発のショックが大きかったので、この間もその後も怖さも心配も全く感じない無感情な状態で、機械的に動いていたように思う。爆発後しばらくたってから、中心部の方から怪我をした人や、火傷をした人が大勢逃げてきた。衣類を吹き飛ばされたためほとんど裸で、肌は赤黒く焼けただれていた。腕の皮が剥けて手先からひものようにぶら下がっている人も沢山いた。歩けなくなって我々の防空壕に倒れ込んでくる人も多く、水!水!と言うのだが、当時は怪我人に水を飲ませるとすぐ死ぬから絶対に水を与えてはならないと教育されていたので、我々に出来るのは、声を掛けて団扇であおいであげることだけだった。私の怪我は足の小さな切り傷だけだった。それまで私は怪我をしても膿んだことはなかったが、これはすぐ膿んで、何時までたっても直らなかった。また、非常に疲れやすく無気力な状態が長く続いた。
欧州各国の大都市でも、空爆の被害を受けたところは多い。しかし、火薬の爆弾は爆発して破壊すればそれで終わりだが、原子爆弾は爆発して、熱線と爆風で破壊するほかに、放射能をまき散らし、被爆者の体内に入って、長く健康を損ねる。また、後日爆発地に入った人にも被害を与える。このいわゆる入市被爆を、日米の政府は隠したがっているが、当時広島・長崎にいた人なら誰でも、直接に被爆しなくても、翌日以降に爆心地に入り原爆症にかかった人を多数知っているはずだ。
核兵器の使用は第一級の戦争犯罪である。米国人は、広島・長崎への原爆投下を正しいとする人が多いが、当時の日本はすでに崩壊しており、そのことを米国政府はよく知っていたのだから、海上に落として威力を見せるだけで十分だったはずだ。多くの非戦闘員を殺す必要は全くなかった。
また、米国政府が一貫して放射能の危険性を隠し続けているのも許し難い犯罪である。我々は唯一の被爆国民として、世界中の人に原爆被害の実相を正確に伝える責務がある。そして、もし次の原爆が使用されれば、世界中の人類は滅亡することを理解してもらいたい。そのためには、戦争をなくすことが大切である。戦争がなければ、原爆は不要になる。戦争放棄を掲げた日本国憲法が戦後の我が国の繁栄の土台であることを心に銘記したい。
(赤坂区青山高樹町)