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表参道が燃えた日(抜粋)-赤坂・麻布・渋谷区以外・1

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通常 表参道が燃えた日(抜粋)-赤坂・麻布・渋谷区以外・1

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2009/6/27 20:53
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298









 恐怖の日々、そして平和への願い
              小松 英子



 戦争が烈しくなって、本土にB29が来襲するようになった昭和二十年、私は池上線の池上徳持町という所に祖母と母、兄、弟二人と暮らしておりました。父は軍隊の徴用で、滅多に帰って参りませんでした。真ん中の弟は農家に預かっていただいておりました。

 毎晩のように、警戒警報のサイレンが鳴ると、枕元に用意した防空頭巾とリュックと水筒を持って庭に作った防空壕に入り、解除になるのを待ちました。リュックの中には学用品、食料と、なぜか白い新品の運動靴が入っていました。

 ある日、それは五月二十五日でした。空襲警報になり、防空壕でも危ないと知らせが来ました。母と兄はもしもの時の消火活動のために残り、私と一番下の弟、祖母と身体障害の弟、と二組に分かれて、町会の人の誘導で避難することになりました。あれは確か、第二京浜国道沿いの池上本門寺の近くか、まだ先の馬込の方向に向かったような気がします。焼夷弾が火を放って落ちてくるのが、暗い空にとても近く感じられ、この辺りも危ないと、また違う場所へと逃げました。私は幼い弟を離すまいと、しっかり手を握って、みんなについて行くのが精一杯でした。

 空襲警報も解除になり、わが家の方に戻って行くと、辺りは見渡す限り、駅の方まで家が残っていません。私の家も煙が出ていて全焼でした。母と兄は必死に消火したそうですが、身の危険を感じて、やはり近所の人と一緒に逃げたそうです。

 後日、道路の空地に焼夷弾のもえかすが山のように積まれていたのが怖いようでした。防空壕の中からは、骨組みだけ残ったミシンと、金属製の箱の中の着物類が半分くらい焼け残って出てきました。いつまでもこげ臭いにおいがしていました。

 その日は町会のお世話になりましたが、私共はすぐに祖母の親類を頼って寝泊りできる所を求めて等々力に行きました。母と兄も焼け跡の整理をしてから遅れて来ましたが、その家にはすでに別の焼け出された親類が入っていて、あちら七人、こちら六人の大家族が半分ずつ使う賑やかな生活が始まりました。

 五月二十五日の大空襲で多くの同級生が焼け出されました。無線機の組み立て作業をしていた学校工場も、この日を境になくなりました。その後、疎開しないで残った女学校三年生の私達に与えられたのは召集令状書きの仕事でした。

 渋谷から市電で焼け野原を通って青山一丁目にある師団司令部に通いました。師団司令部も全焼で、その跡に仮設されたテント張りの部屋で、召集令状の宛名を一字一字丁寧に書きました。私の家の近くのご主人のお名前を書いたこともありました。横田治子さんはクラスの高山さんのお父様のお名前を書いたそうで、勿論他言は許されず、心を痛めたものでした。その頃小林先生が軍隊の原中尉の許可を頂き、お昼休みに広い連隊の片隅で讃美歌を歌わせていただいた事は忘れる事が出来ません。今考えますと戦争中にこのような事が出来たのは、皆の気持ちが通じたのでしょう。唯一心休まる時でもありました。

 市電から見る青山通りの焼け野原には、日を追ってバラックが二つ、三つ、四つと増えて行きました。何処へも行く所のない方は、その辺りにある焼けた木やトタン板を集めてきて、掘立て小屋をたて住むようになったのです。その生活力に感心したものでした。

 八月十五日は、何か重大な発表があるという事で、駒場の第一高等学校の校庭に集まりました。そして天皇陛下の終戦のお言葉を伺いました。兵隊さんも一緒だったように思います。皆直立不動で、聞きづらい音でしたが戦争が終わった事はわかりました。地面に涙が落ちて拭うのを忘れるくらい大変な事がおきた…と感じました。みんな泣いていました。

 家は焼かれ、こわい思いは何度もしましたが、父は軍隊から、弟は疎開先から戻り、家族八名怪我もなく無事だったことを心から感謝しました。

 しばらくして、私達も家族だけで住める家を探し始めていた頃、突然、三浦軍曹が私を訪ねてやって来ました。青山一丁目の師団司令部で私達を監督していた方です。これから東京を離れ、故郷に戻り仕事を探すとの事でした。短い時間でしたが強く印象に残っている思い出です。

 私共は、食料事情の厳しさなどはありましたが、とにかく家も見つかり、家族皆で一緒に暮らせるようになりました。三浦軍曹もきっと新しい生活を始められた事と思いました。

 第二京浜国道の池上あたりを逃げ廻ったあの恐怖は、どう言い表したらよいか分かりません。こんなことが二度とないように、私は、憲法第九条は大切に守らなければいけないと思うのです。

 (大森区池上徳持町)

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