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表参道が燃えた日(抜粋)-赤坂・麻布・渋谷区以外・3

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通常 表参道が燃えた日(抜粋)-赤坂・麻布・渋谷区以外・3

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2009/6/29 8:02
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 忘れられない歴史の事実を伝えるために
                白井 貞









 戦災犠牲者の追悼碑
 表参道みずほ銀行前




 今年、港区政六十年記念として、表参道に「戦災追悼碑」が建立されたことは快挙です。

 東京大空襲の数ヶ月は、生き延びた者にとっても、生き地獄の感があります。まして戦災でいのちを奪われた方の恐怖と無念さ、お遺族のかなしみは、果てることがありません。「戦災追悼碑」は、そうした思いにこたえるとともに、いまは戦争を知らない人が三人に二人という時代なので、戦争の惨さを改めて知らせます。

 「赤坂青山地域の大半が焦土と化し」と碑文にありますが、焼ける前には市電に乗ってよく出掛けた処でした。江戸時代からの山の手で、大名屋敷や寺院の多いお屋敷町の風情と、明治以後の御所や青山墓地、赤坂藝者の賑い、名のある学校、病院も想い出します。貴重な歴史文化が失われて残念です。そしてさらに言えば、平和に暮らしていた市民が、一瞬にして戦災で凡てが奪われたことの重大さをしっかり考えたいものです。

 追悼碑建立の請願書に署名を乞われたとき、青山の市電の車庫や六本木辺、表参道の入口近くで戦災死があったこと、善光寺別院でも伽藍が焼け落ちた、しかし、皆様が善光寺に供養塔を立て、戦災殉難者追善法要を平成六年の五十回忌まで行われたとのことを聴きました。お遺族の高齢化によるのでしょうが、感無量です。

 「戦災追悼碑」の格調のある石碑に一礼して、碑文を読み、感動しました。「表参道ではケヤキが燃え、青山通りの交差点附近は火と熱風により、逃場を失った多くの人が亡くなりました。」は名文です。戦争の実情を知らない若者の心底にとどく力を持っています。

 しかし、わたくしは腰掛けて、しばらく哀悼の情に浸っていましたが、ここは若者のファッション街の入口、立ちどまって見る人がいない。考えさせられました。恐らく縦書きの碑文を読む習慣が欠けるのでしょう。読めない字はないと思うが、書に馴染むこともない。そこで要旨を横書きにした白い案内板を立てたら、読む人が増えるのでは…、一工夫を願います。

 また、石碑のバックが未完成で荒れ果てた感じがします。雑草がまばらに生えた土の山に、季節の可憐な花でも植え込んだら、花に惹かれて若い女性が足を止め、案内板に気付いて、碑文を読むことになるでしょう。石碑、周囲の石の汚れも気になります。
 これは墓石をみがくおばあさんの感覚。もう少し若かったらボランティアでやりたいが、三田からバスと地下鉄を乗り継いで訪ねるのでは、手がでない。
 以上、僭越なことを述べて恐縮します。

 戦災者の苦難には及ばないが、敗戦のとき、二十二歳の私の体験を述べましょう。

 戦時繰上卒業で昭和十七年二月に労働科学研究所へ。中島飛行機と立川飛行機の栄養調査をしていた。それだけに東京大空襲が本格化した、十九年十一月のB29、百十一機の来襲以来、度々の爆撃で二つの航空機工場が壊滅して、そこで働いていた少年・少女の多数の顔を想い出します。三月十日の下町は三百二十五機、山の手の五月二十四日は五百六十二機、二十五日は五百二機、それからも空襲の恐怖は続き、加えて食糧配給も混乱して飢えに苦しみました。

 三月十日の空襲は淀橋(南新宿)で、その時は新宿と思ったが誤る。下町の空襲でした。家中が桃色になって震えていた。翌日、強制疎開の令状が来て、三月末に大八車に家財を積んで、叔父が引き、私が後押し、青梅街道を行き、成宗(南阿佐ヶ谷)へ移る。隣組長の二階屋が引き倒される中です。淀橋は四月に焼けて、間一髪でした。

 父は輸送船の船長で、昨秋から消息が絶えていた。母と娘三人、長女の私は買出し他の男役。サツマ芋三十キロを帯芯で作ったリュックで背負った時は必死でした。

 五月二十五日の空襲は、物凄い爆音と炸裂音で一時覚悟しました。青梅街道へ出ると、新宿方面から紅蓮の焔の壁が道路一杯になって押し寄せてくる。空には照明弾が無数、ゆっくり降りてきて、その上方に数十機のB29が銀の矢尻のよう。黒点としかいえないわが戦闘機が二、三機、まとうように飛ぶ。この圧倒的な戦力の差に茫然と。だが、今回も無事でした。火は鍋屋横丁迄を焼き尽して消えました。このときに港区が焼けたのですね。千駄ヶ谷、目黒、七月には板橋の親戚が焼けて、家族は無事でしたが戦後は苦労しました。

 その後はどちら様も飢えと買出しに苦しみ、タケノコ生活。疎開交渉の苦渋、疎開者への差別、出征した家族の生死の不安と、苦闘が続いたと思います。

 もう東京は危ない。新潟県の親戚、知人を訪ねたが、間違いでした。そこで僅かな縁を思い出し、上の妹は村上高女の家事科教師として九月からの就職が決まり、私はさらに夜行で日本曹達(前年に栄養調査で訪ねていた)に行き、就職が一つ返事できまる。下の妹は入学しても学徒動員で埼玉県の上尾の工場へ阿佐ヶ谷から通っていたが、ダウンして七月から休学。私と上の妹は敗戦後に任地へ行き、その後帰京しました。

 この旅から帰った夜、父の公報(一月末に戦死)が待っていた。後に調べてもらうと、船長として覚悟の見事な最期でした。戦没船員遺族会では妻達の苦闘を知る。私と同年齢か上の方だが、乳幼児を抱えて戦後の苦労を耐え抜いて、母として再婚せずに老いた。三浦半島・観音崎の戦没船員記念碑の前で行う、毎年五月の追悼式に集う子供や孫に助けられる、九十歳を越えた姿に涙する。戦争は妻子や両親のささやかな幸せまで奪った。

 ああー東京大空襲の頃に出会った人々は,凡てが不本意な時代なのに、なんと純粋で清冽な人が多かったことでしょう。どうぞ戦災者やお遺族のことを忘れないで欲しい。

(杉並区成宗)












 戦災殉難者供養塔
     善光寺

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