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表参道が燃えた日(抜粋)-付録・1-

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通常 表参道が燃えた日(抜粋)-付録・1-

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2009/7/2 19:53
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 戦争への道

 日清(明治二十七、八年)、日露(明治三十七、八年)の戦争によって、日本はアジアへの侵出に大きく踏み出した。明治二十八(一八九五)年、台湾を清国より割譲、明治四十三(一九一〇)年、韓国を併合。日本は中国東北部(南満州)の利権をロシアから譲り受け、関東軍を配置した。

 第一次世界大戦(大正三~七(一九一四~一九一八)年)に、日本は連合国側として参戦し、対支二十一か条要求を出して、武力によって実現させようとしたのが満州事変(昭和六年(一九三一)年)である。昭和七年、日本の傀儡(かいらい)国家満州国が成立。

 満州を足場にして領土拡大を図る日本は、十五年戦争の時代に入る。日本では二・二六事件(昭和十一年)が起こり、軍部の政治支配力は著しく強化された。昭和十二年七月七日、盧溝橋事件が起き、日中戦争(当時日本側は支那事変といった。日支事変ともいう。「支那」という呼称を日本は第二次世界大戦末まで使う)が始まる。昭和十二年十二月、南京占領、蒋介石率いる国民政府は臨時首都を重慶に移し、中国共産党と抗日民族統一戦線を結成する。

 日中戦争が泥沼化すると、日本は豊富な資源をもつ南方進出を計画する。日独伊の三国同盟を結び、東南アジアの仏領、英領、蘭(オランダ)領の植民地への侵攻が始まる。日本の勢力圏拡張の構想はアメリカとも対立することになる。

 昭和十五(一九四〇)年九月、仏領インドシナ北部に進駐、十六年四月から日米交渉が始まり、アメリカは日本軍の中国からの撤退を要求、南方への進出を認めなかったが、日本はその年の七月に仏領インドシナ南部にも進駐、アメリカは日本への石油の輸出を禁止。十一月五日の御前会議で英米蘭との戦争を決意、その時期を十二月初頭と決めていた日本の陸海軍は、作戦準備に入っていた。十一月二十六日にアメリカ国務長官ハルが提示した「ハル・ノート」では日本側の拒否回答に対し新提案もしているが、日本側はアメリカの最後通牒とみなして太平洋戦争(日本政府は大東亜戦争と呼び支那事変も含むとした)に突入した。

 十二月八日、日本時間午前二時、英領マレー半島侵攻、三時十九分真珠湾を奇襲、米・英・蘭に宣戦。


 東京空襲のあらまし

 東京への米軍の初空襲は昭和十七年四月十八日のドゥリットル爆撃隊長のB25中型爆撃機による空襲である。B25はミッドウェイ島沖の空母ホーネットから十六機が飛び立ち日本上空に侵入、東京のほか川崎、横須賀、名古屋、神戸を爆撃した。その後約二年半、米軍機は東京には姿を見せなかった。

 本格的に空襲が始まったのは昭和十九年十一月二十四日からである。米軍は十九年七月にサイパン島を占領すると、サイパン、テニヤン、グアム島の飛行場からB29が飛び立った。二十年二月までは主として軍需工場に対して、昼間、約一万メートルの高々度から、目視による精密爆撃であった。軍需工場の上空が雲に蔽われている日には、市街地に無差別爆撃を行った。焼夷弾爆撃も増えてきて、二月中旬には航空母艦からの艦上機が大量に襲来し、機銃掃射をした。三月から五月にかけては夜間超低空のB29による焼夷弾無差別攻撃。終戦までの東京周辺のB29による爆撃、艦上機、P51などによる機銃掃射による攻撃が特徴である。


 東京大空襲

 一般に「東京大空襲」というと、二十年三月十日の下町への空襲を指す場合が多い。被害の大きさが東京の空襲を代表しているという意味でもある。三月十日午前零時八分に始まったB29三百二十五機による二時間半にわたる無差別絨毯爆撃(焼夷弾一六六五トン)で、下町全域は焦土と化し、死者は十万人を超えた。

 大戦中、一日の死者が十万人というのは広島に次ぐもので、世界にも例がない。

  世界の無差別爆撃による死者数(概算)を示すと、
   一九三七年四月          ドイツ軍によるスペイン・ゲルニカ空爆 二千人
   一九三八年二月~四三年八月 日本軍による中国・重慶空爆      二万人
   一九四〇年九月~十一月    ドイツ軍によるイギリス・ロンドン空爆  四万人
   一九四五年二月          米英軍によるドイツ・ドレスデン空爆  三万五千人

 三月十日の空襲を指揮したカーチス・ルメイ司令官は、東京以外の都市にも、また広島、長崎の原爆投下にも関与した。戦後日本の自衛隊の育成に尽力したという理由で、日本政府から勲一等旭日大綬章が授与された。


 山の手大空襲

 昭和二十年四月十三日から五月二十五日にかけての東京山の手地域へのB29による夜間焼夷弾攻撃をいう。

 この間でもっとも規模が大きく被害が甚大だったのは、東京市街地最後の空襲といわれた五月二十五日から二十六日にかけての空襲だった。その一日前の五月二十四日早朝にも空襲があり、一部赤坂、渋谷にも被害が出た。二十四日午前一時三十六分、B29五百六十二機、主として目黒、荏原、品川方面、投下した焼夷弾三六四五トン。五月二十五日は午後十時二十二分からB29五百二機、赤坂、麻布、渋谷、中野方面に焼夷弾三二五八トンを投下した。

 投下した焼夷弾の数は三月十日の下町空襲より倍ぐらい多かったが、死者ははるかに少ない(二十四日はもっと少ない)。このことは地域の立地条件の違いや建物疎開がされたことや空襲の連続で老人や女性、子供たちの疎開が急速に増えたことも一因といわれるが、三月十日の空襲の経験から、住民が消火活動より早く避難することを選んだためと思われる。しかし爆撃を受けた市街の惨状、人々の恐怖は三月十日の空襲と変わらなかった。

 米軍は五月二十五日の空襲を最後に「主要目標はなくなった」として東京を大規模爆撃リストからはずした。五月二十五日から二十六日の死者数は、一日の死者数としては、東京では三月十日東京下町の大空襲に次いで多い。被災率は、港三区の中では赤坂区がもっとも高くて八三・七%(戸数比(新修港区史))、渋谷区は七六・八五%(面積比(新修渋谷区史))である。

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