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表参道が燃えた日(抜粋)-付録・4-

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通常 表参道が燃えた日(抜粋)-付録・4-

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2009/7/5 8:14
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 ことばの説明


 B29

 ボーイング社製米軍の大型重爆撃機。昭和十八年完成。全長三十メートル、翼長四十三メートル、重量五十四トン、航続距離六千六百キロメートル、最時速五百八十キロメートル、積載量十トン。サイパン、テニアン、グアムの三島が占領されて十九年八月から基地が建設され、七飛行場ができた。中国成都基地より五十機が移ってきて日本全土が爆撃の射程距離内に入った。B29の東京初来襲は十九年十一月二十四日。初期は昼間、高度八千メートルから一万メートルで、軍需工場などを目標に高高度精密爆撃であった。機数は千機に増え、夜間発着が可能となり、夜間の低高度(千五百~三千メートル)無差別爆撃をおこなった。B29の本土来襲は延べ三万四千七百九十機で、三百五十三回出撃し、約十六万トンの爆弾、焼夷弾を投下した。広島、長崎に原子爆弾を投下したのもB29である。


 青山脳病院

 明治四十年九月、斎藤茂吉(精神科医、歌人、随筆家)の義父斎藤紀一によって青山南町五丁目(現南青山四丁目)に建てられた。ローマ式建築で、前面に円柱が並び、屋根には数個の尖塔と正面玄関の上には時計塔があり、周囲は家もまばらな原の中のこの建物は、一躍青山の名物になった。大正十三年十二月二十九日、失火により焼失、二十数名が死亡した。

 昭和二年、茂吉が院長に就任。病院の再建は、住民の反対のため松沢村松原に再建、青山は脳外科病院とし、松原の分院になった。昭和十七年十二月、茂吉の長男斎藤茂太が院長になるが、二十年五月二十五日の空襲で全焼し終焉を迎えた。

 病院に隣接していた自宅で空襲を体験した次男北杜夫は、小説「楡家の人びと」に、被災の情況、青山通りの惨状について詳しく書いている。現在、病院跡地はマンションになり、茂吉の歌碑が建っている。


 青山墓地

 青山家の下屋敷跡(現南青山二丁目)に東京市が公営墓地として開設。その三年前の明治五年に開いた青山墓地の飛び地(現南青山六丁目)の立山墓地が、日本最初の公営墓地といわれる。昭和十年、東京市は青山墓地と立山墓地をあわせて東京市青山霊園と名称を改めた。総面積約九万坪、埋葬体数約十二万体。有名人の墓が多い。


 表参道

 大正九年十一月、明治神宮の創建とともに開設。大正十年沿道にケヤキが二百一本植えられた。関東大震災の時は未完成だったが、五年間かけて整備された。明治神宮から青山通りまで全長一キロメートル、両側に歩道があって幅の広いまっすぐな道路は当時としては珍しかった。

 二十年五月二十五日の空襲では表参道は炎の流れとなって人々は逃げまどい、ケヤキは火をかぶって焼け、かろうじて再生したのは明治神宮寄りの十本ぐらいであった。昭和二十三年から二十四年にかけて若い苗木が植えられケヤキ並木は復活したが、地下鉄工事で根を切られたり、きのこに侵食された木が多い。ケヤキは現在百六十五本だが、参道の東側は植えて間もない若い木が数本ある。


 学徒勤労動員

 学徒勤労動員は十七年一月から始まっていたが、昭和十八年六月「学徒戦時動員体制確立要綱」が閣議決定し、本格的な戦時動員が実施された。対象は中学校三年以上。同年十月の「戦時非常措置」によって勤労動員が強化され、十九年二月から原則通年動員、四月から二年生以上が学業を中断し、主として軍需工場で働いた。一年生も学校工場で働いた例がある。


 学徒出陣

 兵役法では男子は十七歳から兵役に服することを義務としていたが、大学、専門学校生は徴兵猶予になっていた。昭和十六年十月十六日、大学、専門学校年限が六か月短縮と決まり、大学は二年半で卒業となる。十八年九月二十二日、法文科系学徒の徴兵猶予停止が閣議決定された。同年十二月、入営となる出陣学徒の壮行会が十月二十一日に明治神宮外苑で開催された。なお、理工系学徒は「特殊技術をもつ者」として入営延期とされた。


 学徒挺身隊
 
 女子挺身隊のことをいう。昭和十八年九月に創設され、十四歳以上二十五歳未満の女性が、市町村長、町内会、婦人団体などの協力によって構成されていた。十九年八月に女子挺身勤労令が公布されて女子挺身隊制度が法的な根拠を持つと、以後徴用が強制された。この法令は二十年三月の国民勤労動員令に吸収され、挺身隊も国民義勇隊に再編成された。


 金鵄勲章

 陸海軍人の武功に対し与えられた賞牌で、明治二十三年二月十一日に制定された。功一級から功七級まであって、それぞれ金額が決められていた。明治二十七年十月の年金令では年金が支給されることになっていたが、昭和十六年六月に年金をやめ、一時金とした。


 勤労動員

 昭和十六年三月に国民労務手帳が公布され、戦争のための人的資源として国民登録が実施された。男子は十六歳以上四十歳未満、女子は十六歳以上二十五歳未満の未婚のもの(昭和十九年一月からは男子十二歳以上六十歳未満、女子は十二歳以上四十歳未満)を対象として、強制的に軍需産業や食糧増産、鉱山、炭鉱などに徴用した。


 国債

 政府は軍事費をまかなうために国債を増発し、債券消化に支障をきたすと貯蓄債券、報国債券を発行、町内会、隣組を通し割り当てるようになった。


 国民学校

 昭和十六年公布の国民学校令により同年四月一日から二十一年度まで尋常小学校を国民学校に改称した。

 「皇国」の次代を担う「少国民」を育成する場として位置づけられ、軍事教練なども正課に組み込まれた。国民学校六年生の上に高等小学校に相当する二年間の教育課程の高等科をおく。


 国家総動員法

 昭和十三年四月一日公布。日支事変(日中戦争)に際して「人的及び物的資源」を統制、動員、運用するための法律。十六年三月、総動員法は改正され、統制強化、罰則規定の強化が計られる。日支事変が始まった年の昭和十二年八月二十四日には国民精神総動員実施要綱が近衛内閣で決定した。国民精神総動員運動は昭和十五年十月発会の大政翼賛会へと受け継がれていく。

 
 近衛師団

 明治四(一八七一)年、天皇の警護を名目に薩摩、長州、土佐の三藩から約一万人の献兵を受け、政府直属の軍隊である「御親兵」を創設。明治五年、西郷隆盛を中心とした「近衛兵」として改組、明治二十四年、近衛師団と改称された。

 昭和十八年、十九年に編成された近衛第二師団、第三師団は終戦時には作戦地に赴いていたため、本来の近衛兵としての任務、本土決戦のための任務は近衛第一師団が担当した。旧日本軍の中では一番実力を持っていたといわれる。昭和二十年八月十日、ポツダム宣言受諾、十五日の未明に天皇のラジオ放送の「玉音盤」を奪おうとする将校らの反乱があったが、制止され失敗に終わる。

 近衛師団司令部庁舎は現在、東京国立近代美術館/工芸館となっている。


 焼夷弾

 燃えやすい焼夷剤と少量の炸薬とを入れた爆弾。B29一機がばらまく焼夷弾は千五百二十発。日本は焼夷弾を先に中国の都市空襲で使った。米軍も日本の木造家屋にもっともふさわしい焼夷弾として、油脂焼夷弾(ナパーム弾)を開発した。親弾といわれる集束焼夷弾は、地上約七百メートルで分解して三十八発のM69焼夷弾がばらまかれ、着地と同時に信管が作動して油脂分を広範囲にばらまき、燃え上がる。落下するとき尾部から出されたリボンに火がついて、炎の雨のように見える。落下地点で炎上するエレクトロン焼夷弾やマグネシウム焼夷弾も投下された。


 善光寺

 信州善光寺の別院で、浄土宗の尼寺。慶長六(一六〇一)年、徳川家康の勧請(かんじょう)を受け、江戸谷中に建立。元禄十六(一七〇三)年、火事により焼失し、現在地(北青山)に移る。文久二(一八六二)年、再び類焼を受けた。明治維新後の試練を乗り越えて、総建坪四百九十坪、二重層の仏殿が完成したが、その翌年の昭和二十年五月二十五日の空襲で大伽藍、仁王門ともに焼け落ちた。戦後三十年近くの歳月をかけて現在の建物が完成した。

 境内に勝海舟の撰文による高野長英の碑があったが、戦災で大破したため昭和三十九年に再建された。戦災殉難者の供養塔もあり、毎年五月二十五日には法要が行われる。


 疎開

 空襲などの被害を避けるために都市の住民、建物を分散させた。昭和十八年十二月に都市疎開実施要綱がきまる。


 建物(強制)疎開

 空襲による延焼を防ぐために、東京、横浜、川崎などの密集地や、鉄道、軍需工場などの周辺建物は強制的に取り壊された。


 学童疎開

 国民学校(今の小学校)三年生(二十年からは二年生)以上で、個別に縁故先に疎開(縁故疎開)できない学童たちを、学校ごと集団で疎開(集団疎開)させた。昭和十九年六月三十日に学童集団疎開が閣議で決定、十九年八月四日に東京の第一陣が出発。疎開地では学校ごとに旅館、寺院などに分宿して授業を受けた。


 第一師団
 
 明治二十一年五月に東京鎮台(明治前期の陸軍の軍団)を母体に編成された。この時編成された全国六師団が日本で最も古い師団である。第一師団司令部は赤坂離宮内に設置されたが、明治二十四年三月に赤坂区青山南町一丁目に移転した。司令部内には麻布連隊区司令部も置かれ、連隊区内の徴兵、召集、在郷軍人に関する事務などを行った。第一師団は東京の警備を主な任務としたが、日清戦争、日露戦争、ノモンハン事件、太平洋戦争に参加。最終の任地はフィリピンレイテ島で、補給が途絶えて壊滅状態となった。当初約一万名で編成されたが、昭和二十年一月の残存兵力は八百名であった。第一師団司令部の庁舎は五月二十五日の空襲により全焼した。


 歩兵第一連隊

 第一師団歩兵第一連隊は明治六年改称の東京鎮台歩兵第一連隊第一大隊が創始である。明治十七年に赤坂檜町に駐屯。昭和十一年二月二十六日、歩兵第三連隊、赤坂一ツ木町の近衛歩兵第三連隊とともに青年将校が軍事クーデターに決起(二・二六事件)。十一年五月に渡満、支那事変、ノモンハン事件に参加、十九年十一月レイテ島に転進、二十年一月セブ島に渡ったが、八月に終戦を迎える。レイテ島上陸時約二千五百あった兵力の生存者は三十九名だったという。


 歩兵第三連隊

 明治七年十一月、東京鎮台を改称して創立。明治二十二年から昭和十四年八月まで麻布龍土町に駐屯、昭和十一年五月、主力が中国東北部に派遣され、十八年八月から沖縄宮古島の防衛に任じたが終戦を迎える。

 龍土町の駐屯地には十四年八月、近衛歩兵第五連隊が編成されたが、中国、南方戦線へ出動。十八年五月、首都防衛のため近衛歩兵第七連隊が創立された。前東京大学生産技術研究所の建物は震災のため倒壊した兵舎を昭和三年六月に再建したものである(青山公園の「麻布台懐古碑」より)。


 大本営

 戦時または事変に際して天皇を軍事統帥面で補佐するためにできた作戦指導機関。国民への情報伝達の公的窓口であった。明治二十六年に制定、第二次大戦後廃止。


 徴兵検査と兵役

 明治六年一月徴兵令発布、当時は免除の対象が多かった。昭和二年、徴兵令に替えて兵役法が公布され、十七歳から四十歳(昭和十八年からは四十五歳)までの男子はすべて兵役に服することが定められた。徴兵検査は満二十歳(十九年からは十九歳)で受け、甲種から戊種までに選別、甲種は現役で入隊し、平時は三年間服務、戦時には徴集された。乙種は補充兵役として、丙種は国民兵役として必要に応じて召集。戦争末期には丙種も召集された。


 東京都制と特別区再編、町名・地番の整理

 昭和十八年、東京府と東京市の二重行政を一本化し、東京都になる。東京市には三十五の区があったが、昭和二十二年三月に二十二区に再編、二十二年十月に板橋区から練馬区が独立して二十三区が特別区となった。港区は赤坂区、麻布区、芝区が合併して成立。渋谷区は昭和七年十月、渋谷、千駄ヶ谷、代々幡の三町が合併して成立した。町名、地番は、昭和三十年代から四十年代にかけて全都で整理された。


 同潤会青山アパート

 同潤会とは、関東大震災後にできた財団法人。義援金で設立された、政府による日本初の本格的な住宅供給組織である。はじめは賃貸だったが、戦後、東京都が民間に払い下げた。鉄筋コンクリート造りで最新の設備を備えた、当時としては画期的な住居であった。東京では十六箇所につくられ、青山アパートは表参道沿いに昭和二年に完成。三階建て十棟。戦災にも耐えてきたが、老朽化による建て替えを巡って三十年を経、平成十五年夏以後取り壊しが始まり、平成十八年二月、跡地に表参道ヒルズが開業。かつてのアパート一棟を復元した同潤館がつくられている。


 特攻隊(特別攻撃隊)

 太平洋戦争末期、爆弾を装着したままパイロットもろともに敵艦隊に体当たり攻撃するために日本軍によって特別に編成された部隊。特殊潜航艇や人間魚雷による水中特攻、モーターボートによる水上特攻などもある。昭和十九年十月二十六日、フィリピン、レイテ湾の米軍艦艇に突入した神風(しんぷう)特別攻撃隊が最初といわれる。以後、陸海軍ともに多数の特攻隊を出撃させた。航空特攻隊の死者は約四千人にのぼるとされる。


 配給制度

 戦時統制経済のもとで、特定商品を数量、頻度、対象が決められて消費者に公平に売る制度のこと。昭和十五年にマッチ、砂糖の配給が始まり、十六年四月に生活必需物資統制令が公布。米、塩、味噌、酒、木炭、等々、衣料品、外食券に至るまで通帳、購入券がつくられ、隣組長によって配られた。


 広島原爆投下

 昭和二十年八月六日午前八時十五分、広島市上空に侵入したB29エノラゲイ号が投下した一発の爆弾が閃光とともに爆発した。翌日大本営は「新型爆弾」と発表した。アメリカでは大統領が「原子爆弾」であるという声明をすぐ出した。爆風により半径二キロメートル以内の家屋は全壊し、熱線により火災が発生した。爆心地近くの人はほぼ即死し、家屋の下敷きになったまま焼き殺された人も多い。さらに、放射線障害や火傷により年内に広島で十四万人、長崎で七万人の死者が出た。現在でも多くの人が後遺症に苦しんでいる。広島の原子爆弾はウラン型、長崎はプルトニウム型と言われている。


 ミッドウェイ沖海戦

 昭和十七年六月四日から七日にかけて日米海軍の死闘が行われた海戦。日本は旗艦「大和」をはじめあらゆる艦船を集中させ、米軍の戦力は日本の半分にも満たなかったが、日本側が大敗した。この海戦が、戦争開始以来の日本の優位が逆転する転機となる。ミッドウェイ島は日本の本州とハワイ諸島の中間にあり、米軍は早くからこの島に飛行場をつくり、前哨基地としていた。昭和十七年四月十八日の本土への初空襲はこの基地近くの海上にあった空母ホーネットより飛来したものだった。軍部はこの奇襲に大きな衝撃を受け、空襲の禍根を絶ち、奪取して、逆に日本の前哨基地にしようとミッドウェイ島を襲ったのである。


 明治神宮

 明治天皇・昭憲皇太后をまつる。大正九年十一月一日創建。明治神宮ができる前は皇室の御料地だったが、明治時代は井伊家の下屋敷であった。内苑、外苑には、全国から献木されたおよそ十二万本、三百六十五種の人工林が繁り、面積は約七十万平方メートルである。昭和二十年四月十三日から十四日の空襲で、本殿等主要建物は焼失したが、三十三年十一月に復興造営された。五月二十五日から二十六日にかけての空襲では、火に追われた近隣の大勢の人たちが森林に逃げ込み、難を逃れた。


 代々木練兵場

 明治四十二年七月に開設、四十三年十二月にこの地で日本初飛行に成功している。麻布、赤坂の歩兵連隊の演習地として使われた。明治十九年に開設した青山練兵場(現明治神宮外苑、総面積五万五千坪)が博覧会を開催するための代替地でもあった。広さ二十万坪で現在のNHKも練兵場の跡地で、渋谷区役所寄りの所に衛戍(えいじゅ)(陸軍)刑務所があり、二・二六事件の関係者がここで処刑された。

 演習のない時は一般に開放され草野球や凧(たこ)揚げが行われたが、昭和十年代になると禁止された。戦争末期には学徒たちの教練場にもなった。周辺には黄砂が舞い上がり、号令と鉄砲、機関銃の音が鳴り響いていた。

 戦後米軍に接収されて、宿舎ワシントンハイツになり、昭和三十九年に返還、東京オリンピックの選手村になった。都立代々木公園として開園したのは昭和四十二年十月である。

 防衛省は平成十九年五月、地対空誘導弾パトリオットミサイルPAC3を首都圏に配備し、訓練することを決めた。代々木公園は候補地の一つに上がっている。

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