捕虜と通訳 (小林 一雄)第二部・40
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恩人を捜すアメリカ軍中尉との再会に涙して・1
昭和五十九年(一九八四)七月二十七日。この日も私には忘れがたい一日となった。私が本格的に捕虜収容所時代の〝旧交復活″運動を始めて以来、初めてアメリカの捕虜だった人と会うことができた日だからである。その人は、コカ・コーラの元副社長、いまはアメリカ・ジョージア州日米協会専務理事として活躍中のロバート・J・ブロードウォーターさん(再会当時六五)=ROBERT・J・BROADWATER=。十七年(一九四二)、フィリピンで日本軍の捕虜となり、あの、「バターン死の行進」を生き残り、日本へ移送されて終戦の二十年八月十五日まで大阪・多奈川、兵庫・生野の両捕虜収容所で暮らした。当時、二十七歳くらい、日本軍との連絡担当の青年将校で陸軍中尉。親日的だった。
彼と会うことになったのは、彼が収容所時代に敵、味方の国境を越えて親切にしてもらい、あらゆる捕虜から慕われていた「収容所長」を捜しているとのラジオ・ニュースを「収容所長」の遺族が聞いたのがきっかけだった。その前後の事情はすでに述べた通りだ。
この日午後、私は東京都港区のホテル・オークラで彼と会った。彼の宿泊先である。七月八日に東京都内で開かれた同協会総会に一行二十八人とともに参加した。総会の終ったあとも「ぜひ年来の希望である収容所長クラニシさんを捜し当てたい。再会したい」と単身、滞在して、手をつくしていたところだった。「クラニシ」さんとは、多奈川の収容所長をしていた倉西泰次郎・陸軍中尉のことだった。
ところが、その倉西中尉はすでに亡くなっており、私はそのことを知っていた。ラジオ・ニュースを聞いた倉西未亡人、緑さん (七三) と娘のミネ子さん (五〇) からの知らせに私は驚いた。懐しいブロード・ウォーターさんが来日して懸命に「クラニシ」さんを捜していることに感激もした。「ぜひ力になろう」「旧友にぜひ会おう」-私はすぐ知人のいるサンケイ新聞社を通じて、今回の収容所長捜しにひと役買っている東京・TBSテレビ放送と連絡をとった。その結果、ブロード・ウォーターさんと会うことを決めたうえで、大阪・堺市の倉西さん宅を訪ねた。未亡人と会い「できれば、いっしょに上京しようと思って…」と誘ったが、老齢で心身ともに弱っておられ、上京は不可能だった。
しかし、未亡人も娘のミネ子さんもブロード・ウォーターさんと私の再会を通じて、倉西中尉の消息を知らせることのできるのを大変、喜び、仏前に報告したあと、軍服姿の写真などの遺品を取り出して倉西中尉を偲《しの》び、ブロードウォーターさんに渡してほしいとの依頼をうけた。未亡人は、とくに手づくりの大きな美しい「手まり」の飾り二個を彼にプレゼントしてほしいと託された。私はこれらを持って七月二十六日、独りで上京、ホテル・オークラに宿泊した。
敵方の捕虜からも慕われていた倉西先生は、旧広島高等師範学校(現広島大学教育学部)を中退、旧中等教員検定試験に合格して、陸軍に召集される日まで旧堺中学(現三国丘高校)で英語の教師だった。柔道も高段者で、大柄な文武両道に秀でた尊敬すべき先生だった。私も同中学で教えてもらい、英語を通じて英語圏の文化のすばらしさ、日本文化との違いなどを教示していただいた。旧制神戸高商への入学、捕虜収容所への勤務、すべて「倉西先生」との推薦と指示をいただいた。私にとっては〝人生の師〃でもあった。その先生も終戦後は一時、捕虜虐待の戦犯容疑で巣鴨拘置所に拘留されたが、容疑が晴れ、すぐ釈放されて再び旧堺中学で教壇に立っていた。
緑さんは武人の妻らしく、物静かに話した。「夫は昭和四十三年(一九六八)十一月に病いで亡くなりました。当時六十九歳でしたが、アメリカの捕虜のことなど収容所の話はよく聞かされました。ブロードウォーターさんの名前もしばしば耳にしました。戦犯の疑いをかけられた時には、捕虜の人たちの証言で起訴を免れたと嬉しそうでした。巣鴨からは半年もしないうちに帰ってきました。いま生きておれば、どんなに喜んだことか…もう少し早く吉報がもらえれば、夫もブロードウォーターさんも、恐らく関係者のみなさんも、笑いながらお会いできたでしょう。でも、ブロードウォーターさんのご尽力には心から感謝し、仏前に報告させていただきます。いつまでもお元気で日米親善にご活躍されますよう、お伝えください」その表情は、亡夫の戦時中の行為が敵方からも賞讃され〝人の道〃にはずれていなかったことを証言する〝アメリカの旧友″のいることを知って、明るかった。その緑さんも昭和六十年(一九八五)に病没し、いまはその一人娘の新井ミネ子さんが、大阪市西区で両親の面影を慕いながら元気に暮らしている。
昭和五十九年(一九八四)七月二十七日。この日も私には忘れがたい一日となった。私が本格的に捕虜収容所時代の〝旧交復活″運動を始めて以来、初めてアメリカの捕虜だった人と会うことができた日だからである。その人は、コカ・コーラの元副社長、いまはアメリカ・ジョージア州日米協会専務理事として活躍中のロバート・J・ブロードウォーターさん(再会当時六五)=ROBERT・J・BROADWATER=。十七年(一九四二)、フィリピンで日本軍の捕虜となり、あの、「バターン死の行進」を生き残り、日本へ移送されて終戦の二十年八月十五日まで大阪・多奈川、兵庫・生野の両捕虜収容所で暮らした。当時、二十七歳くらい、日本軍との連絡担当の青年将校で陸軍中尉。親日的だった。
彼と会うことになったのは、彼が収容所時代に敵、味方の国境を越えて親切にしてもらい、あらゆる捕虜から慕われていた「収容所長」を捜しているとのラジオ・ニュースを「収容所長」の遺族が聞いたのがきっかけだった。その前後の事情はすでに述べた通りだ。
この日午後、私は東京都港区のホテル・オークラで彼と会った。彼の宿泊先である。七月八日に東京都内で開かれた同協会総会に一行二十八人とともに参加した。総会の終ったあとも「ぜひ年来の希望である収容所長クラニシさんを捜し当てたい。再会したい」と単身、滞在して、手をつくしていたところだった。「クラニシ」さんとは、多奈川の収容所長をしていた倉西泰次郎・陸軍中尉のことだった。
ところが、その倉西中尉はすでに亡くなっており、私はそのことを知っていた。ラジオ・ニュースを聞いた倉西未亡人、緑さん (七三) と娘のミネ子さん (五〇) からの知らせに私は驚いた。懐しいブロード・ウォーターさんが来日して懸命に「クラニシ」さんを捜していることに感激もした。「ぜひ力になろう」「旧友にぜひ会おう」-私はすぐ知人のいるサンケイ新聞社を通じて、今回の収容所長捜しにひと役買っている東京・TBSテレビ放送と連絡をとった。その結果、ブロード・ウォーターさんと会うことを決めたうえで、大阪・堺市の倉西さん宅を訪ねた。未亡人と会い「できれば、いっしょに上京しようと思って…」と誘ったが、老齢で心身ともに弱っておられ、上京は不可能だった。
しかし、未亡人も娘のミネ子さんもブロード・ウォーターさんと私の再会を通じて、倉西中尉の消息を知らせることのできるのを大変、喜び、仏前に報告したあと、軍服姿の写真などの遺品を取り出して倉西中尉を偲《しの》び、ブロードウォーターさんに渡してほしいとの依頼をうけた。未亡人は、とくに手づくりの大きな美しい「手まり」の飾り二個を彼にプレゼントしてほしいと託された。私はこれらを持って七月二十六日、独りで上京、ホテル・オークラに宿泊した。
敵方の捕虜からも慕われていた倉西先生は、旧広島高等師範学校(現広島大学教育学部)を中退、旧中等教員検定試験に合格して、陸軍に召集される日まで旧堺中学(現三国丘高校)で英語の教師だった。柔道も高段者で、大柄な文武両道に秀でた尊敬すべき先生だった。私も同中学で教えてもらい、英語を通じて英語圏の文化のすばらしさ、日本文化との違いなどを教示していただいた。旧制神戸高商への入学、捕虜収容所への勤務、すべて「倉西先生」との推薦と指示をいただいた。私にとっては〝人生の師〃でもあった。その先生も終戦後は一時、捕虜虐待の戦犯容疑で巣鴨拘置所に拘留されたが、容疑が晴れ、すぐ釈放されて再び旧堺中学で教壇に立っていた。
緑さんは武人の妻らしく、物静かに話した。「夫は昭和四十三年(一九六八)十一月に病いで亡くなりました。当時六十九歳でしたが、アメリカの捕虜のことなど収容所の話はよく聞かされました。ブロードウォーターさんの名前もしばしば耳にしました。戦犯の疑いをかけられた時には、捕虜の人たちの証言で起訴を免れたと嬉しそうでした。巣鴨からは半年もしないうちに帰ってきました。いま生きておれば、どんなに喜んだことか…もう少し早く吉報がもらえれば、夫もブロードウォーターさんも、恐らく関係者のみなさんも、笑いながらお会いできたでしょう。でも、ブロードウォーターさんのご尽力には心から感謝し、仏前に報告させていただきます。いつまでもお元気で日米親善にご活躍されますよう、お伝えください」その表情は、亡夫の戦時中の行為が敵方からも賞讃され〝人の道〃にはずれていなかったことを証言する〝アメリカの旧友″のいることを知って、明るかった。その緑さんも昭和六十年(一九八五)に病没し、いまはその一人娘の新井ミネ子さんが、大阪市西区で両親の面影を慕いながら元気に暮らしている。
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編集者 (代理投稿)