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捕虜と通訳 (小林 一雄)第二部・30

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通常 捕虜と通訳 (小林 一雄)第二部・30

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1
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2008/10/15 8:27
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 思い出対談
   覚えなき戦犯の汚名に泣いた旧日本軍人と・1

 大阪・多奈川、兵庫・生野の両捕虜収容所で管理・運営を担当した軍曹、峰本善成さんとの戦後の出会いについては、すでに述べた。つい最近、会った際、七十二歳とは思えない元気な姿に驚いたほどだった。久しぶりの対面に、あの収容所勤務時代のこと、最近のようすなど、時の経つのを忘れて話し合った。
                ◇
 小林 本当にお元気そうで何よりです。以前よりも調子がよいように見受けられますね。
 峰本 おかげで元気です。いまはくよくよすることもなく、ノンビリできるからでしょうなナ。あなたと話すたびに思い出すのは、あの捕虜収容所時代と、私が戦争犯罪人の汚名、いわれなき罪名で服役させられたことです。あの戦犯問題については、そのご当時のアメリカ兵捕虜からも、誤った裁判だったこと、私がそんな罪刑を課せられるようなことをする人間でなかったことを証言する手紙をくれたことなどで、無実が証明されたと信じています。そんなとこから、心のわだかりも吹っきれて精神的に落ち着いた状態でおれる。だから健康体で暮らせるんでしょうな。(笑い)

 《すでに述べたように、峰本さんは、多奈川の捕虜収容所に勤務中、アメリカ兵の脱走捕虜を捕え、他の下級日本兵が、営倉に入れたその捕虜を殴打する事件があった。その際、連絡をうけて現場に行き、管理責任者として殴打を制止してその場をおさめたにもかかわらず、卒先して捕虜を虐待したとして、終戦と同時にGHQから戦犯容疑者に指名された。C級戦犯として軍事法廷で懲役十五年の刑を受け、結局、三年の服役後、釈放された。終始、いわれなきこととして無実を主張したが聞き入れられなかった。そのご、同収容所にいたアメリカ軍将校が「誤った裁判で無実の峰本氏にいわれなき罪刑を課した。あなたはそんな人ではなく、終始、捕虜に寛容だった」との証言を記した手紙を送ってきた》

 小林 そうでしょう。戦犯という重荷、それも身に覚えがないと主張したにもかかわらず、一方的な捕虜の証言だけで処断されたんですから…すぐに処断され、服役も終ったあととはいえ、無実、誤った軍事裁判だったという〝遅過ぎた証言″が届いた時の喜びは、何にも例えようがないほどだったと思いますよ。健康も回復、体調がよくなった原因が理解できますね。
 峰本 まったくその通り…刑務所内では当然、悶々(もんもん) の日を送りましたが、釈放されてからも、何となく釈然としない、暗い思いで過ごす日々がつづきました。家族らの慰めのことばにどうにか支えられていた状態がしばらくはつづきました。つい最近まで、アメリカなどへ旅行をするためのパスポートを申請しても許可されないんじゃないかと、錯覚するほどでした(真剣な表情で)。それだけ私にはショックだったんです。戦争は酷なものだと、つくづく思いますね。
 小林 峰本さんの一例でもわかるように、あの裁判、軍事裁判は偏重した見方に支配された部分が多かったといわれている。私も勝者が敗戦国を処断した裁判の一面があったと思います。とくにB、C級戦犯の裁き方には、法廷での一方的証言や限られた意見が重視され、全部とはいえないまでも、かなり事実認定がお粗末だったように思えてなりません。峰本さんのように戦後、半世紀近くなったとはいえ〝誤った裁判だった〟という証言が寄せられた。しかも、当時、被告だった人と対立していた〝敵国〃だった人から寄せられた証言ですね。あの戦争裁判の一面を歴史が証明し、語ってくれたんですね。
 戦争は酷なものですが、戦いが終ったあとの、裁判処理の仕方は敵、味方ともにさらに悲しい。
 あんな歴史は二度とごめんです。

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編集者 (代理投稿)

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