捕虜と通訳 (小林 一雄)第二部・17
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編集者
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捕虜収容所長の獄中日誌(その2)・1
倉西中尉の巣鴨・獄中日誌「その2」は終戦の翌年、昭和二十一年(一九四六)元旦から始まる。
「ゲッタップ(起きろ)」「レッツゴー(行こう)」-新年とはいえ、いつものようにアメリカ看守衛兵のカン高い声と各房の扉を叩いてまわる騒々しさで朝が明けた。同僚の収監者のなかには独房を順番にまわり、なかには箒(ほうき)を持って来てくれる者もいる。「朝食前に新年の拝礼式がある。掃除を急いでくれ」といずれも親切に知らせてくれる。「今日は元旦、年が明けたんだなあ」と感慨にふける間もなく、歯ブラシをくわえたまま、三畳の独房を掃除し、顔を洗い、大急ぎで扉の外に出た。
会う人ごとに互いに「新年おめでとう」とあいつさつを交わす。なかには三階にある六十余の独房を一つ一つまわって新年のあいさつをする人もいる。「橋本」や「西本」は、いつもとは違う背広姿。〝自分″だけは入房した時と同じ垢のついた薄汚れの軍服姿のまま。しかし、こうしたあらたまった服装やことばのやりとりの一つ一つに「ここにも新年の新たな気分がただよって、いつもとはひと味違う朝を感じた」と記している。
「昭和二十一年一月一日 火曜日 快晴 (中略)屋上へ通じる階段を盛んに人が上って行くので、屋上へ行くのを許されたのかと人々に従って上って行った。〝富士が見える/〟といふ声が次々に起る。
狭い階段を上って窓から西南方を見た。見える、見える。富士が暁の日光を浴びてくっきりと真白な姿を箱根辺りの山脈の上に浮き上らせてゐる。箱根連山まではむごたらしい東京の焼跡である。所々に煙突や鉄筋コンクリートのビルの一部が聳え立ってゐるのみで他は焼跡の瓦礫《がれき》の堆積《たいせき》が見渡す限り広がってゐる。
元旦の富士、獄窓に観る富士、累々《=つらなりつづく》たる大東京の焼跡の荒野の果に白妙の《しろたえの注1》麗姿を現はした富士。実に国破れて山河あり。人間の世の有為転変《ういてんぺん注2》を他所に悠久の自然は千古不変である。神々しいその麗容。日本は破れた。然し乍ら美しき日本の土-自然は永久に敗れない、否、大自然に勝敗はない。人の世の悲喜哀楽、幸不幸、生死盛衰、興亡を外所に、無限の過去より無窮《=かぎりのない》の未来に連なるもの之大自然である」一気にペンを走らせている。
元日に獄窓から眺めた富士に、中尉は「時空を超越したー神にも非ず、真理にも非ずー偉いある物の存在を感得した」と述べている。さらに 「戦争に敗れた日本だが日本そのものは滅びたのではない。富士が厳として聳える限り日本は厳として存在すると感じた」とも。敗戦で打ちひしがれた日本の国そのものはまだ生きつづけており、〝生命の喜び″と〝未来への勇気″を富士山が与えてくれたことに感謝したい気持ちだったのだろう。獄窓から眺めた富士の絵をペン書きしているのが印象的だ。
この日のペンはまだまだつづく。「廻礼に廻ろうか何うしようかと遅疑してゐる所へ真崎(甚三郎) 大将が自ら頭を下げて 〝新年御目出度う″ と廻礼に来て下さったのには恐縮した。
富士を見た後、式のため廊下の両側蛇腹を隔てて二列に整列した。と小林といふ善通寺の何処かの通訳(二、三日前、多奈川の小林一雄通訳と間違へられて取調を受けた通訳)が、借越ですが私が音頭をとりますからとか、何とか云って変に講釈交りに宮城遥拝、黙祷をやる。何故、真崎閣下か誰かにやって貰はないのかと思ひ、遅れて入所して来てから出しゃ張り通しの此の短躯の通訳に反感を持ち多少不平だった。と蛇腹を通して見る二階では小磯 (国昭)大将が太い腹の底から出る落着いた声で式を主宰し、厳粛な拝賀式をやって居る。三階の者も皆沈黙して二階の有様を見てゐる。僕等も真崎閣下に主宰して貰へばよかったのにと異口同音に云ひ合った。後で閣下から一言挨拶か訓示でもして貰ひ度かった」とある。
元旦の朝食メニューは、餅三切れ、大根、白菜に鮪 (マグロ)一片の入った雑煮、煮つけの鯛一尾、ゴボウ、ニンジンの煮しめ、白菜の漬けもの、ミカン五個。
「なかなか立派で豪奢な献立。マッカーサーもよく気をきかしたものだ。之丈けの物を集めるには相当骨が折れた事と思ふ。一人当り二十円はかかっただらう。鯛も大きな物で地方で買ふと五十円はかかるかも知れない。刑務所で之丈けの正月祝膳につけるのは有難かった。後からコーヒ1杯、平常最も八釜しいので皆から嫌はれてゐる看守も今朝は文句も云はぬ。先刻から朝食前後まで約二時間、扉の外で皆の顔を見乍ら小言ではあるが話が出来る事も有難い」
そして「クリスマスの翌日辺りから-火を入れたストーブ---一階にあってその煙突が二、三階の蛇腹から天井へ抜けてゐる---の御蔭で廊下も余り寒くない。いつも不平顔の我々も今日は皆満足さうな顔。斯ういふ事では米人はなかなか気がきいてゐると言ふか抜け目がないといふか、外交家といふか、実にうまいものと思ふ。我々も捕虜を取扱ふ時此の心構えが少し足りなかった様に思ふ。大いに学ぶべき点だ」と卒直な感想と反省も。
しかし、軍事裁判の進んでいる拘置所の陰鬱《いんうつ》さは同じだった。「この日も二階の野須軍医(大阪捕虜収容所勤務。逃亡捕虜タイラー事件に登場)が〝倉西さーん″と再三、呼び、何やらいい始め、毎日のしつこさだけにナマ返事をした。余程、多奈川の事が気になると見える。(中略)峰本は峰本で二、三日前の訊問以来、血相を変へ盛に二階から僕を呼び訴へてゐる。今になって騒いでも仕方ない。僕は僕として言ふべき事を堂々と申立てるまでだ」
一方、以前入浴した時に火傷(やけど)したヒジが化膿しアメリカ軍医に、指の凍傷とともに治療を受けたこと。運動時間に大阪捕虜収容所長の村田大佐が裁判のため(証人に立つためか?)房を出たこと、などを記録。「新しい年になり、今年は良い事もあるだろう。暁方に見た富士が未来光明を象徴する如く脳裏に刻みつけられた」と結んでいる。
注1 白妙の=麗姿(うるわしい姿)にかけた枕詞
注2 有為転変=仏語 常に移り変わっていくはかないものである
倉西中尉の巣鴨・獄中日誌「その2」は終戦の翌年、昭和二十一年(一九四六)元旦から始まる。
「ゲッタップ(起きろ)」「レッツゴー(行こう)」-新年とはいえ、いつものようにアメリカ看守衛兵のカン高い声と各房の扉を叩いてまわる騒々しさで朝が明けた。同僚の収監者のなかには独房を順番にまわり、なかには箒(ほうき)を持って来てくれる者もいる。「朝食前に新年の拝礼式がある。掃除を急いでくれ」といずれも親切に知らせてくれる。「今日は元旦、年が明けたんだなあ」と感慨にふける間もなく、歯ブラシをくわえたまま、三畳の独房を掃除し、顔を洗い、大急ぎで扉の外に出た。
会う人ごとに互いに「新年おめでとう」とあいつさつを交わす。なかには三階にある六十余の独房を一つ一つまわって新年のあいさつをする人もいる。「橋本」や「西本」は、いつもとは違う背広姿。〝自分″だけは入房した時と同じ垢のついた薄汚れの軍服姿のまま。しかし、こうしたあらたまった服装やことばのやりとりの一つ一つに「ここにも新年の新たな気分がただよって、いつもとはひと味違う朝を感じた」と記している。
「昭和二十一年一月一日 火曜日 快晴 (中略)屋上へ通じる階段を盛んに人が上って行くので、屋上へ行くのを許されたのかと人々に従って上って行った。〝富士が見える/〟といふ声が次々に起る。
狭い階段を上って窓から西南方を見た。見える、見える。富士が暁の日光を浴びてくっきりと真白な姿を箱根辺りの山脈の上に浮き上らせてゐる。箱根連山まではむごたらしい東京の焼跡である。所々に煙突や鉄筋コンクリートのビルの一部が聳え立ってゐるのみで他は焼跡の瓦礫《がれき》の堆積《たいせき》が見渡す限り広がってゐる。
元旦の富士、獄窓に観る富士、累々《=つらなりつづく》たる大東京の焼跡の荒野の果に白妙の《しろたえの注1》麗姿を現はした富士。実に国破れて山河あり。人間の世の有為転変《ういてんぺん注2》を他所に悠久の自然は千古不変である。神々しいその麗容。日本は破れた。然し乍ら美しき日本の土-自然は永久に敗れない、否、大自然に勝敗はない。人の世の悲喜哀楽、幸不幸、生死盛衰、興亡を外所に、無限の過去より無窮《=かぎりのない》の未来に連なるもの之大自然である」一気にペンを走らせている。
元日に獄窓から眺めた富士に、中尉は「時空を超越したー神にも非ず、真理にも非ずー偉いある物の存在を感得した」と述べている。さらに 「戦争に敗れた日本だが日本そのものは滅びたのではない。富士が厳として聳える限り日本は厳として存在すると感じた」とも。敗戦で打ちひしがれた日本の国そのものはまだ生きつづけており、〝生命の喜び″と〝未来への勇気″を富士山が与えてくれたことに感謝したい気持ちだったのだろう。獄窓から眺めた富士の絵をペン書きしているのが印象的だ。
この日のペンはまだまだつづく。「廻礼に廻ろうか何うしようかと遅疑してゐる所へ真崎(甚三郎) 大将が自ら頭を下げて 〝新年御目出度う″ と廻礼に来て下さったのには恐縮した。
富士を見た後、式のため廊下の両側蛇腹を隔てて二列に整列した。と小林といふ善通寺の何処かの通訳(二、三日前、多奈川の小林一雄通訳と間違へられて取調を受けた通訳)が、借越ですが私が音頭をとりますからとか、何とか云って変に講釈交りに宮城遥拝、黙祷をやる。何故、真崎閣下か誰かにやって貰はないのかと思ひ、遅れて入所して来てから出しゃ張り通しの此の短躯の通訳に反感を持ち多少不平だった。と蛇腹を通して見る二階では小磯 (国昭)大将が太い腹の底から出る落着いた声で式を主宰し、厳粛な拝賀式をやって居る。三階の者も皆沈黙して二階の有様を見てゐる。僕等も真崎閣下に主宰して貰へばよかったのにと異口同音に云ひ合った。後で閣下から一言挨拶か訓示でもして貰ひ度かった」とある。
元旦の朝食メニューは、餅三切れ、大根、白菜に鮪 (マグロ)一片の入った雑煮、煮つけの鯛一尾、ゴボウ、ニンジンの煮しめ、白菜の漬けもの、ミカン五個。
「なかなか立派で豪奢な献立。マッカーサーもよく気をきかしたものだ。之丈けの物を集めるには相当骨が折れた事と思ふ。一人当り二十円はかかっただらう。鯛も大きな物で地方で買ふと五十円はかかるかも知れない。刑務所で之丈けの正月祝膳につけるのは有難かった。後からコーヒ1杯、平常最も八釜しいので皆から嫌はれてゐる看守も今朝は文句も云はぬ。先刻から朝食前後まで約二時間、扉の外で皆の顔を見乍ら小言ではあるが話が出来る事も有難い」
そして「クリスマスの翌日辺りから-火を入れたストーブ---一階にあってその煙突が二、三階の蛇腹から天井へ抜けてゐる---の御蔭で廊下も余り寒くない。いつも不平顔の我々も今日は皆満足さうな顔。斯ういふ事では米人はなかなか気がきいてゐると言ふか抜け目がないといふか、外交家といふか、実にうまいものと思ふ。我々も捕虜を取扱ふ時此の心構えが少し足りなかった様に思ふ。大いに学ぶべき点だ」と卒直な感想と反省も。
しかし、軍事裁判の進んでいる拘置所の陰鬱《いんうつ》さは同じだった。「この日も二階の野須軍医(大阪捕虜収容所勤務。逃亡捕虜タイラー事件に登場)が〝倉西さーん″と再三、呼び、何やらいい始め、毎日のしつこさだけにナマ返事をした。余程、多奈川の事が気になると見える。(中略)峰本は峰本で二、三日前の訊問以来、血相を変へ盛に二階から僕を呼び訴へてゐる。今になって騒いでも仕方ない。僕は僕として言ふべき事を堂々と申立てるまでだ」
一方、以前入浴した時に火傷(やけど)したヒジが化膿しアメリカ軍医に、指の凍傷とともに治療を受けたこと。運動時間に大阪捕虜収容所長の村田大佐が裁判のため(証人に立つためか?)房を出たこと、などを記録。「新しい年になり、今年は良い事もあるだろう。暁方に見た富士が未来光明を象徴する如く脳裏に刻みつけられた」と結んでいる。
注1 白妙の=麗姿(うるわしい姿)にかけた枕詞
注2 有為転変=仏語 常に移り変わっていくはかないものである
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編集者 (代理投稿)