捕虜と通訳 (小林 一雄)第二部・32
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編集者
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思い出対談
覚えなき戦犯の汚名に泣いた旧日本軍人と・3
小林 捕虜なりに考えたことばだったかも知れませんが、しかし私も彼らと話していて、人間とは何か、戦争とは何かということを真面目に彼らが考え、話題にしてくることが多かった。
いまでも私の心に残る彼らのことばの一つは「捕虜は刑期なき死刑囚のようなものだ」ということです。それだけ毎日が不安だったんですね。だから、私は私なりに、彼らのそんな心理を察して、収容所での生活が安全であるように気くぼりしたつもりです。
峰本 とにかく、生きのびること、身の安全をもっとも気にしていたことは事実ですね。戦争末期にはしょっちゅう〝空襲警報〃が発令されましたが、そんな時、アメリカ軍の艦載機や大型爆撃機が飛来した時でも、彼ら捕虜は決して防空壕に入ろうとしなかったですね。小林さんも知っているように、防空壕に入ると、日本軍が一斉射撃して自分らを一人残らず殺すかも知れないと恐怖を感じていたんです。こちら、われわれ日本軍サイドからいうと、万一、収容所が爆撃され捕虜を死なせることにでもなったら大変だと考え、防空壕入りを指示したんですが、駄目でしたね。収容所の屋根には大きな文字で「POW」(捕虜)とペンキで善かれていました。捕虜にとっては友軍機がこの場所を爆撃するハズがないと考えていたんですかね。それでも上空から見ると、すぐ近くに軍需工場や施設があり、これを狙《ねらい》い撃ちしても収容所内に弾が落ちることがありました。そんな時でも彼らは平然として、というか身は伏せていても防空壕には入りませんでしたね。われわれも、あれには困りました。しかし、そんな急襲でもあの収容所で捕虜の死者が出なかったのは幸でした。
峰本 捕虜の希望をなるべくかなえる努力をしたことは事実でした。厳しい環境で制約はありましたが…例えば、確かヒルマンという名の五十歳くらいの老兵がおりました。ある日、日本軍の軍属が所外労働の監督業務を終って帰所するなり「彼は老齢で肉体労働に間に合わないので軽作業部門に変えてほしい。彼のような体力では作業日課が遅れてしまう」と注文をつけてきたことがありました。一も二もなく、彼を部署変えしました。自分らの寝具の下に敷くための藁(わら)を抱え、縄ないをする軽労働をさせたんです。それからは彼の体調もよく、喜んでいるようでした。このほか、チャウディという高齢の兵士にも肉体労働から自分たちの弁当運搬役に変えたところ、とても喜んでいました。
小林 下士官以下は捕虜国際条約によって労働を課せられる。将校は労働をさせられないと決まっているので、老年兵でも何かの労働を余儀なくさせられたんですね。
峰本 菜園づくりも楽しかったですよ。食糧不足の時でしたから、なるべく自給自足の方法を考えたんです。捕虜の方からも希望があり、所外の近くで将校連中がやっていました。ところが、戦後と違って肥料はすべて人糞です。近くの農家から桶と柄杓(ひしゃく)を借り、農家の畑の肥つぼから糞尿《ふんにょう=大便と小便》をもらって運ばせ、作物にかけさせたんですが、おかげで作物のできもよく、食糧の足しに役立ちました。だが、人糞を扱う彼らは「臭い」「汚い」「非衛生だ」と、とくに最初のころはきらって扱うことを拒んでいました。アメリカなど西欧にはそんな習慣がないのでびっくりしたんでしょう。しまいには何とか慣れましたがね。戦後、私の軍事裁判の時、この人糞作業をさせたことが問題になり「人道上、許せない」と指摘されたんですが、私としては日本人の習慣上、やったまでだと再三、説明しても、なかなか理解してくれなかった。これも刑の裁定に影響したのではないかと思いますが、まあ、戦争裁判とは、負けた民族の文化、慣習を否定した上に成り立っていると、つくづく考えさせられましたね。こうして勝った者の文化が敗戦文化を同化させ、普及するんでしょう。それにしても、善意から出たあの人糞農園が指揮されるとは‥・(苦笑い)
覚えなき戦犯の汚名に泣いた旧日本軍人と・3
小林 捕虜なりに考えたことばだったかも知れませんが、しかし私も彼らと話していて、人間とは何か、戦争とは何かということを真面目に彼らが考え、話題にしてくることが多かった。
いまでも私の心に残る彼らのことばの一つは「捕虜は刑期なき死刑囚のようなものだ」ということです。それだけ毎日が不安だったんですね。だから、私は私なりに、彼らのそんな心理を察して、収容所での生活が安全であるように気くぼりしたつもりです。
峰本 とにかく、生きのびること、身の安全をもっとも気にしていたことは事実ですね。戦争末期にはしょっちゅう〝空襲警報〃が発令されましたが、そんな時、アメリカ軍の艦載機や大型爆撃機が飛来した時でも、彼ら捕虜は決して防空壕に入ろうとしなかったですね。小林さんも知っているように、防空壕に入ると、日本軍が一斉射撃して自分らを一人残らず殺すかも知れないと恐怖を感じていたんです。こちら、われわれ日本軍サイドからいうと、万一、収容所が爆撃され捕虜を死なせることにでもなったら大変だと考え、防空壕入りを指示したんですが、駄目でしたね。収容所の屋根には大きな文字で「POW」(捕虜)とペンキで善かれていました。捕虜にとっては友軍機がこの場所を爆撃するハズがないと考えていたんですかね。それでも上空から見ると、すぐ近くに軍需工場や施設があり、これを狙《ねらい》い撃ちしても収容所内に弾が落ちることがありました。そんな時でも彼らは平然として、というか身は伏せていても防空壕には入りませんでしたね。われわれも、あれには困りました。しかし、そんな急襲でもあの収容所で捕虜の死者が出なかったのは幸でした。
峰本 捕虜の希望をなるべくかなえる努力をしたことは事実でした。厳しい環境で制約はありましたが…例えば、確かヒルマンという名の五十歳くらいの老兵がおりました。ある日、日本軍の軍属が所外労働の監督業務を終って帰所するなり「彼は老齢で肉体労働に間に合わないので軽作業部門に変えてほしい。彼のような体力では作業日課が遅れてしまう」と注文をつけてきたことがありました。一も二もなく、彼を部署変えしました。自分らの寝具の下に敷くための藁(わら)を抱え、縄ないをする軽労働をさせたんです。それからは彼の体調もよく、喜んでいるようでした。このほか、チャウディという高齢の兵士にも肉体労働から自分たちの弁当運搬役に変えたところ、とても喜んでいました。
小林 下士官以下は捕虜国際条約によって労働を課せられる。将校は労働をさせられないと決まっているので、老年兵でも何かの労働を余儀なくさせられたんですね。
峰本 菜園づくりも楽しかったですよ。食糧不足の時でしたから、なるべく自給自足の方法を考えたんです。捕虜の方からも希望があり、所外の近くで将校連中がやっていました。ところが、戦後と違って肥料はすべて人糞です。近くの農家から桶と柄杓(ひしゃく)を借り、農家の畑の肥つぼから糞尿《ふんにょう=大便と小便》をもらって運ばせ、作物にかけさせたんですが、おかげで作物のできもよく、食糧の足しに役立ちました。だが、人糞を扱う彼らは「臭い」「汚い」「非衛生だ」と、とくに最初のころはきらって扱うことを拒んでいました。アメリカなど西欧にはそんな習慣がないのでびっくりしたんでしょう。しまいには何とか慣れましたがね。戦後、私の軍事裁判の時、この人糞作業をさせたことが問題になり「人道上、許せない」と指摘されたんですが、私としては日本人の習慣上、やったまでだと再三、説明しても、なかなか理解してくれなかった。これも刑の裁定に影響したのではないかと思いますが、まあ、戦争裁判とは、負けた民族の文化、慣習を否定した上に成り立っていると、つくづく考えさせられましたね。こうして勝った者の文化が敗戦文化を同化させ、普及するんでしょう。それにしても、善意から出たあの人糞農園が指揮されるとは‥・(苦笑い)
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編集者 (代理投稿)