@





       
ENGLISH
In preparation
運営団体
メロウ伝承館プロジェクトとは?
記録のメニュー
検索
その他のメニュー
ログイン

ユーザー名:


パスワード:





パスワード紛失

捕虜と通訳 (小林 一雄)第二部・38

投稿ツリー


このトピックの投稿一覧へ

編集者

通常 捕虜と通訳 (小林 一雄)第二部・38

msg#
depth:
1
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2008/10/30 9:00
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 一つの戦争証言
     ′元捕虜が明かす恩情の日本軍人・1

 私が本格的に〃捕虜収容所の友情〃復活運動を始めてから最初に〃夢の再会″をしたアメリカの親友の一人はロバート・J・ブロードウオーターさん(元陸軍中尉。ROBERT・J・BROADWATER)。再会したさい、収容所長・倉西泰次郎さんのすばらしさ、収容所にいた大半の日本人職員や軍人の友情に感動したことなど、思い出を聞かされたことは、すでに述べた。そのご彼は、日本軍と交戦した太平洋戦争中から捕虜時代、戦後もっとも日本とかかわり深い団体の責任者となって活躍する現在までの思い出と体験を、ジャーナリストがインタビューによる聞き書きの形で、アメリカのアトランタ・ビジネス・クロニクル紙の一九八四年(昭和五十九年)五月二十一日号に掲載した。この中で彼は体験的「日本人論」を強調し、「一貫して日本人を讃仰してきた」と結んでいる。日本軍と戦い、敗れ、捕らえられた苦しい経験をもつ彼が、そこまでわれわれ日本人を思い、観察し、接していたとは”戦争〃という厳しい敵味方の対立のあとだけに、あらためて彼の理知的な洞察《=本質を見抜く》と深い友情に感激した。

 以下、そのあらましを紹介しよう。
 「〝バターン死の行進″生き残り兵いまジョージア州日米協会専務理事に」の見出しで一頁を埋めた記事である。筆者はディック・ジェントリー氏。
 ブロードウォーター中尉と日本人との出会いは、簡単明瞭な事実から始った。(フィリピン戦線で)日本軍が地平線の彼方から轟音をとどろかせて来襲した時だった。クラークフィールドは潰滅《かいめつ》した。同僚将校がその砲撃被害について「どうやら戦線報告書を提出する必要はないな」と自嘲《じちょう》的にいった言葉を覚えており、それほど完膚《かんぷ》なきまでに被害を受けた戦いだった。

 この時点から事態は急転した。本間雅晴中将の率いる日本軍団がマニラ北部に上陸、南進掃討《そうとう=のこらず払い除く》作戦を開始した。真珠湾攻撃に次ぐ六か月の日本軍連戦連勝の幕開けだった。米比連合軍九万の兵士はたちまち首都マニラから湾を隔てたバターン半島へ後退しなければならなくなった。二マイル沖では一万五千人の兵士とマッカーサー総司令官をふくむフィリピン防衛陸軍総司令部が、堅固な装備のコレヒドール島に閉じ込められたままとなった。この島は米比両軍の最後の砦(とりで)だったが、ほどなく陥落する運命にあった。その最後の戦闘で、日本軍は一日に一万六千発もの砲弾を島へ撃ち込むすさまじさだった。
 ブロードウォーター中尉は、ついにコレヒドール島を踏むことはなかった。一九四二年(昭和十七年)四月八日。四十年前のあの辛い日を忘れることができない。日本軍の進攻に備え道路に障害物を設けていた時だった。白旗をかかげた友軍のジープが近づき、同乗の将校が「わが軍は降伏した」と緊張した口調で話し、走り去った。だが、ブロードウオーター中尉は驚かなかった。ルーズベルト大統領の演説のラジオ放送を聞いてすでに〝降伏″を知っていたからだ。その放送で大統領は「現在、史上最強の艦隊を召集中で、それはヨーロッパ戦線に派遣のためである」と強調していた。「われわれは時間かせぎのための犠牲《ぎせい》に供されるんだー中尉はもちろん、バターン、コレヒドールにいるすべてのアメリカ将兵はそう考えていた。そしてコレヒドールへ行けばオーストラリアにたどり着ける。そうすれば助かると船舶、ボートを探したが、ただの船一艘も見つけることはできなかった。とうとう退去することはできなかった。

 四月九日にバターン半島、五月六日にはコレヒドール島が完全に日本軍によって陥落。日本軍は九万五千人の捕虜を捕えた。中尉もその一人だった。彼が戦争捕虜になった時からすでに四十余年の歳月を経たが、「バターン死の行進」から生還した1人である。あのバターンでは何千もの、数えきれないアメリカ兵が、砲弾の止んだ中で命を落とした。地獄の行進の流れの中に横たわるアメリカ兵の死体。飢えにあえぎ、マラリアにかかり、五人に一人の捕虜が苦渋に満ちた表情でぶっ倒れ、死んでいった姿、事実は、忘れようにも忘れられない。
 「私の部隊には三十三人の将校がいた」と中尉はいうが、その中でわずか三人しか生還できなかった。彼はその三人のうちの一人だったのである。だから、もし日本人憎しの情を持つ人がいるとすれば、彼をおいて他にいないといえるほどの経験をしたのである。
 その彼が、いま強調する。「私は日本人を誰も憎んでいません」と。それどころか、現在、ジョージア州日米協会の専務理事として両国間の友情と理解を深めるために全力を投球している。アトランタ在住の日本人がもっとも快適な生活を送れるよう尽力することが、彼の使命だというのである。

 彼の言葉はつづく。「日本人は戦闘の際には凶暴ですが、私自身、日本民族に憎しみを覚えたことはありません。あの当時をふり返ると、確かに日本軍の中には、何人か嫌悪の情を感じた人もいたが、一方では非常に親近感を覚えた人もいました」 と彼は一例を示した。捕虜になった最初の日だった。偶然、彼の前に来た一人の日本兵は、中尉からライフル銃を取り上げ、代りに一缶のミルクをくれた。「これを飲め」というポーズをとった。二千~三千人の捕虜が並んでいたが、とにもかくにも口に入れるものを貰えたのは、わずか二人か三人で、中尉はそのうちの一人だった。さっそくその夜から〝行軍″が始まったが、長い長い捕虜の幽鬼《ゆうき=亡霊》のような列がつづく中、一日に三十-五十人の割合で倒れていった。〝バターン死の行進″の姿だった。
 中尉は、一九四二年 (昭和十七年) 秋、他の多くの捕虜とともに長門丸で、労働要員隊の一人として日本本土へ送られた。しかし、率直にいって、バターン行進を終ったあとだったので、長く辛い日々を経て、やっとひと息つけたと感じた。日本本土に到着して列車に乗せられた時には、車内が〝曖い〃と、思ったほどだった。それだけ、降伏からバターン行進、日本本土までの道程は厳しく、辛いものだったとふり返っている。


--
編集者 (代理投稿)

  条件検索へ