捕虜と通訳 (小林 一雄)第二部・22
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編集者
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捕虜収容所長の獄中日誌 (その3)・2
ここ二、三日、暖かくしのぎやすい。夜も熟睡でき、凍傷もかなりよくなったと記しているが、大阪捕虜収容所長、村田大佐(前述)ら、捕虜収容所関係者の行動と容疑者としての不安が再び誌上に見えはじめた。
二十二日には村田大佐が取り調べを受けた。そして二十三日の日誌は次のように述べている。
「(中略)午後、村田大佐、木成准尉、吉田衛生兵卜肩ヲ並べテ散歩。(中略)村田大佐モ前途ニ就キ悲観的言辞ヲ漏レ居ラル。ツマリ、ポツダム宣言ニ捕虜虐待者ノ厳罰トイフ二項明記セラルコト、軍事裁判ナルコト、連合国々民ノ輿論《よろん》等ヨリ考へテ厳罰主義ナルコトハ容易ニ判断サルル。
又、現在迄ニ終了セル三名、判決ヲ見ルモ明瞭ニシテ疑フベキ余地ナシトノ意見ナリ」
吉田衛生兵とは私も多奈川の病棟で一緒に働いた。捕虜にもやさしい親切な人だった。どうして戦犯容疑にかかったのか理解に苦しむ。恐らく、無罪になると確信するものの、気の毒でたまらない。やりきれない思いでいっぱいだ。
その翌二十四日には、梨本宮の散歩姿を初めて見た印象を中心に記述している。 「(中略)午後の運動時ニ梨本宮様ガ出ラレタ。今日ハジメテ拝スルコトガ出来夕。御写真デ拝スルノト又、昭和七年ノ大演習ノ時、講評場トナッタ堺中デ拝シタノト全ク同ジ。立派ナ御髭腹ヲ突キ出ス様ニサレタ立派ナ御姿勢。無帽デ毛髪ノ全クナイ御頭ハ実ニ麗ハシ。コンナ刑務所ニ来て居ラレテモ犯スベカラザル威厳卜悠容迫ラザル御態度。国民服ヲキチント着用シテ他ノ者卜同様:前後左右ニ徘徊サレル。南大将卜話サル。東條大将ハ此ノ二、三日散歩ニ出テ来ナイ」
二十五日の日誌-かつての上官だった大佐の態度を非難し、警戒の必要を訴え〝死ぬか生きるかの瀬戸際に狸おやじの陰険な術策に陥ってなるものか″と強調。戦犯裁判という特異な舞台で繰り広げられる、容疑者となった旧軍人たちのそれぞれの葛藤が生々しく描かれている。
「(中略)00大佐(註、何故か匿名)には警戒を要する。2Cへ来たころは散歩もー緒に出来るので親しい、なつかしい気持がしてこちらから側へ寄り、よく話しかけた。だが向ふでは冷淡で尊大、何だか冷水を浴せられた感じだ。昨年四月此の〝おやじ″に熱湯を飲まされた記憶が甦《よみがえ》って来る。
今度も僕や下士官、軍属に罪をきせて己の罪を逃れようとする魂胆が、あの陰険な相貌《そうぼう=かおかたち》に現はれて居る。〝二十もある分所だから一々覚えて居らん″と言った言葉には、平気で再び善良な俺や弱い下士官、軍属を陥《おとしい》れ、自らは免れようとする悪どい陰謀が見える。
今度は死ぬか生きるかだ。あの狸おやぢの術策にかかってなるものか。用心が肝要だ。こんな所へ来てさへ大将其の他の将軍連に御機嫌とりをして僕等の言ふことは歯牙にもかけぬ態度、僕等の存在すら認めない冷酷な態度を持ってゐる。しかし僕と木成や吉田の話には吃《きっ》と聞耳を立てるあたり、とても油断ならぬ腹黒い狸おやぢだ。
三階と一階とで二ケ月振りに視線が合って何度もなつかしさうに微笑を送り、頭を下げて話し度さうにもどかしさうな視線を投げてくれた00中佐 (註、誰か明瞭でない) と較《くら》べ白と黒、天と地の相違だ。
「(前略)今度は命にかかはる。訊問でも裁判に於ても堂々と真実を述べ、部下を救ってやらう。峰本も大分、苦しんゐる様だ。こちらは虚偽、作り言を言ふのではない。(後略)」
二十七日から三十日にかけての日誌には、新聞報道で知ったとして、室蘭捕虜収容分所長が絞首刑判決を受けたこと。この分所長に対し、収容中に死んだ捕虜の父親がイギリス本国から〝必ず死刑にせよ″〝刑執行前に本人を蹴《け》ったり打ったりせよ″と電報が要求したことを検事が法廷で披露したこと。こうした模様の裁判は 〝復讐″ ではないかという感想などが縷々、述べられている。また隣室へA級戦犯容疑の広田弘毅氏が入居、村田大佐と同室になった、とも述べている。
ここ二、三日、暖かくしのぎやすい。夜も熟睡でき、凍傷もかなりよくなったと記しているが、大阪捕虜収容所長、村田大佐(前述)ら、捕虜収容所関係者の行動と容疑者としての不安が再び誌上に見えはじめた。
二十二日には村田大佐が取り調べを受けた。そして二十三日の日誌は次のように述べている。
「(中略)午後、村田大佐、木成准尉、吉田衛生兵卜肩ヲ並べテ散歩。(中略)村田大佐モ前途ニ就キ悲観的言辞ヲ漏レ居ラル。ツマリ、ポツダム宣言ニ捕虜虐待者ノ厳罰トイフ二項明記セラルコト、軍事裁判ナルコト、連合国々民ノ輿論《よろん》等ヨリ考へテ厳罰主義ナルコトハ容易ニ判断サルル。
又、現在迄ニ終了セル三名、判決ヲ見ルモ明瞭ニシテ疑フベキ余地ナシトノ意見ナリ」
吉田衛生兵とは私も多奈川の病棟で一緒に働いた。捕虜にもやさしい親切な人だった。どうして戦犯容疑にかかったのか理解に苦しむ。恐らく、無罪になると確信するものの、気の毒でたまらない。やりきれない思いでいっぱいだ。
その翌二十四日には、梨本宮の散歩姿を初めて見た印象を中心に記述している。 「(中略)午後の運動時ニ梨本宮様ガ出ラレタ。今日ハジメテ拝スルコトガ出来夕。御写真デ拝スルノト又、昭和七年ノ大演習ノ時、講評場トナッタ堺中デ拝シタノト全ク同ジ。立派ナ御髭腹ヲ突キ出ス様ニサレタ立派ナ御姿勢。無帽デ毛髪ノ全クナイ御頭ハ実ニ麗ハシ。コンナ刑務所ニ来て居ラレテモ犯スベカラザル威厳卜悠容迫ラザル御態度。国民服ヲキチント着用シテ他ノ者卜同様:前後左右ニ徘徊サレル。南大将卜話サル。東條大将ハ此ノ二、三日散歩ニ出テ来ナイ」
二十五日の日誌-かつての上官だった大佐の態度を非難し、警戒の必要を訴え〝死ぬか生きるかの瀬戸際に狸おやじの陰険な術策に陥ってなるものか″と強調。戦犯裁判という特異な舞台で繰り広げられる、容疑者となった旧軍人たちのそれぞれの葛藤が生々しく描かれている。
「(中略)00大佐(註、何故か匿名)には警戒を要する。2Cへ来たころは散歩もー緒に出来るので親しい、なつかしい気持がしてこちらから側へ寄り、よく話しかけた。だが向ふでは冷淡で尊大、何だか冷水を浴せられた感じだ。昨年四月此の〝おやじ″に熱湯を飲まされた記憶が甦《よみがえ》って来る。
今度も僕や下士官、軍属に罪をきせて己の罪を逃れようとする魂胆が、あの陰険な相貌《そうぼう=かおかたち》に現はれて居る。〝二十もある分所だから一々覚えて居らん″と言った言葉には、平気で再び善良な俺や弱い下士官、軍属を陥《おとしい》れ、自らは免れようとする悪どい陰謀が見える。
今度は死ぬか生きるかだ。あの狸おやぢの術策にかかってなるものか。用心が肝要だ。こんな所へ来てさへ大将其の他の将軍連に御機嫌とりをして僕等の言ふことは歯牙にもかけぬ態度、僕等の存在すら認めない冷酷な態度を持ってゐる。しかし僕と木成や吉田の話には吃《きっ》と聞耳を立てるあたり、とても油断ならぬ腹黒い狸おやぢだ。
三階と一階とで二ケ月振りに視線が合って何度もなつかしさうに微笑を送り、頭を下げて話し度さうにもどかしさうな視線を投げてくれた00中佐 (註、誰か明瞭でない) と較《くら》べ白と黒、天と地の相違だ。
「(前略)今度は命にかかはる。訊問でも裁判に於ても堂々と真実を述べ、部下を救ってやらう。峰本も大分、苦しんゐる様だ。こちらは虚偽、作り言を言ふのではない。(後略)」
二十七日から三十日にかけての日誌には、新聞報道で知ったとして、室蘭捕虜収容分所長が絞首刑判決を受けたこと。この分所長に対し、収容中に死んだ捕虜の父親がイギリス本国から〝必ず死刑にせよ″〝刑執行前に本人を蹴《け》ったり打ったりせよ″と電報が要求したことを検事が法廷で披露したこと。こうした模様の裁判は 〝復讐″ ではないかという感想などが縷々、述べられている。また隣室へA級戦犯容疑の広田弘毅氏が入居、村田大佐と同室になった、とも述べている。
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編集者 (代理投稿)