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捕虜と通訳 (小林 一雄)第二部・37

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通常 捕虜と通訳 (小林 一雄)第二部・37

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1
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2008/10/28 7:47
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 忘れ得ぬ〝鉄条網の友″捜し・3
 
 五十九年(一九八四)の夏だった。元アメリカ人摘虜将校、名前はブロードウオーター。元中尉。戦時中の十七年(一九四二)、フィリピンで日本軍の捕虜となり、約三年間、仲間とともに大阪・多奈川、兵庫・生野の捕虜収容所で暮らした彼の消息を知った。
 ブロードウォーター中尉は、戦後、帰国し、昭和五十五年 (一九八〇) までコカコーラ社の副社長をつとめ、たまたまジョージア州日米協会専務理事として五十九年七月初め、東京で開かれた日米協会総会に出席のため一行二十余人とともに来日。総会終了後も一人、東京に滞在し、仕事の合間をぬって 「クラニシ所長」 を捜し求めていることをラジオで放送していたという。知人のいる産経新聞社を通じ、確認してもらった。
 「あの、ブロードウォーター中尉に違いない。クラニシ所長とは私の勤めた収容所の倉西泰次郎・陸軍中尉なんだ。間違いない」私はすぐブロードウオーターさんの宿泊する、ラジオ放送で報道された東京のホテルオークラに連絡した。やはり「あのブロードウオーター中尉」だった。東京のTBSテレビ局からも私に連絡があり、再会日をセットしてくれたという。七月二十六日の再会日に上京を約束した。胸の高鳴りを抑《おさ》えることができなかった。戦後ずっと捜し求めつづけていたアメリカの友人のなかで再会する最初の人だった。

 私の戦時中の捕虜との友情復活を実現する行動は、なかなか思うように進まない。このため当初から、私の旧神戸高商時代の親友、日系アメリカ二世で、戦時中は日本の学徒出陣で海軍士官として生まれ故郷のアメリカ軍と実戦を交えた、ポール・保・池田君とは連絡をとりつづけ、現在にいたっている。彼を通じても収容所時代のアメリカ人の〝異国の友″捜しをつづけてもらっているが、なかなか、はかどらない。その全部は行方が不明、アメリカの在郷軍人関係団体にコンタクトしてもらって十分な返事がもらえなかったということだった。

 池田君は、戦後、GHQで勤務したあと、日綿実業の大阪本社に勤め、後年、昇進してアメリカ日綿実業の社長を長らく務めた。この時、子どもの進学のためアメリカに永住を決めた。
 いまはアメリカ人として日本企業のアドバイザーとして活躍しつつ、日米親善友好のために力を尽くしている。その彼からの連絡でもガルブレイス大尉の居所はそのご不明、その他の私が依頼した捕虜だった人びとの行方も明らかでないという。
 私の戦後の〃忘れ得ぬ友情復活〃作戦はこうして始まり、大阪のアメリカ総領事館筋の協力も得ていまもなお、つづいている。是が非でも、主だった ”戦時中の異国の友人〃の消息を知り、飛んで行き、再会の喜びと感激にひたりたいと、神に祈るような気分の毎日である。


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編集者 (代理投稿)

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