捕虜と通訳 (小林 一雄)第二部・25
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編集者
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捕虜収容所長の獄中日誌 (その3)・5
二月十一日の旧紀元節-「所内で挙式。全員各房の前に整列して、荒木大将の音頭で皇居遥拝《ようはい=へだたつた所から拝む》、君が代斉唱、天皇陛下万才を三唱した」とくに「荒木大将はモーニングを着用して指揮される」 戦犯容疑で戦勝国に囚われ、所内でこの種の祝賀式を陸軍最高幹部の音頭で行ったこと自体、アメリカ軍の政策的な寛大さが読みとれる。遂に旧軍人たちの乱れぬ魂の発露に驚かされ、一面ではその心情に悲哀感さえ感じられ、何ともやるせない。
十二、十三日の日誌には、梨本宮が隣室の八号室に移送され、福井県の捕虜収容所に勤めていた軍属と雑居生活が始まったこと。さらに食事時間には皆と同じように茶わんを手に並んでいること。そして「この2C棟の東側には西尾大将、鹿子木博士、広田広毅、安藤紀三郎、梨本宮殿下、畑俊六元帥、土肥原大将、西側には南大将、海軍の豊田副武大将、東條大将が。2Bには戸侯爵、酒井伯爵、賀屋蔵相、鈴木企画院総裁、その他顔も知らぬ一級の名士が扉を並べて居られる。偉感である。大戦中、大戦前の日本の指導者が殆んどここに集ってゐる。彼等の間に捕虜収容所関係の吾々大佐以下軍属に至る末輩が居る。奇観である」 また 「宮殿下と共に入浴。殿下も同様二十分間に洗顔、髭剃《ひげそ》り、身体を洗はれる。之もアメリカのDemocracyの現れだろうか」 と寸評も。
「二月十四日 木曜日 晴 昨日の新聞から。本間雅暗中将が比島軍事裁判で銃殺判決。銃殺は軍人として名誉なる刑であること。本間中将が米側取扱に判決言渡し前、謝辞を述べたこと。米国大審院は上訴を却下したことを報ず。山下泰文は絞首刑だったが本間中将は銃殺、大審院却下は同じ。却下に二人の判事が反対したことも同様で二判事の意見が出ている。
その一人フランク・マーフィー判事-本間裁判の如きものが米国憲法の高尚な精神で行はれないなら、吾々は正義への主張を放棄するか、復讐心に満ちた血の粛清という低水準へ堕落するに等しい。余は之に加担出来ない。沈黙の黙認さへもなし得ない。山下大将、本間中将の処刑は正当な法の過程を経ずに一連の法制的私刑への道を開くものだ。
又、マーフィー、ラットレッヂ両判事-マニラ裁判は強制的自供と群衆的反感を証拠に使ふことを許した、と抗議してゐる。
午前の散歩中、横浜法廷の経験者より横浜刑務所の法廷の事情聴く。本田は部下の残虐行為の責任者として二十年の重労働。
僕も第二回訊問で、タイラーが入倉中或は逮捕時に余の部下が殴打つしたとすれば一決して重大な事でなくタイラー死因が他にあることは明らかだがー余は分所長として責任を負ふと答え署名した。しかし、部下にその行為があったとすれば余の意志と命令に反す。余は再三この種の行為なき様訓戒したと陳述した。果して余の裁判は有罪か無罪か。此の点のみにて二、三日余の脳裡を来往する。九州の坂本大尉の裁判罪状項目のうち〝二十年四月ルーズヴュルト大統領死亡祝賀式に出席強要″とある。安藤閣下訊問受く」
翌十五日の記録-早く出所、解放され一家のために働きたいこと。十五歳までは純真で、十五歳-二十五歳は母の死で動揺期、根なし草だったこと。四十歳までは波乱、煩悶《=なやみ苦しむ》、生死の境地に立った時代。四十歳以後こそ生涯でもっとも意義あるも
のにしたいと強調。そして〝無罪釈放だ〃と神に誓って叫ぶ声を記している。鳴海分所で起きたワゴナー逃亡事件で被告の岡田少尉の弁護人から訊問を受けたこと。大牟田分所長福原大尉に〝絞首刑判決あり〟などと記している。
二月十一日の旧紀元節-「所内で挙式。全員各房の前に整列して、荒木大将の音頭で皇居遥拝《ようはい=へだたつた所から拝む》、君が代斉唱、天皇陛下万才を三唱した」とくに「荒木大将はモーニングを着用して指揮される」 戦犯容疑で戦勝国に囚われ、所内でこの種の祝賀式を陸軍最高幹部の音頭で行ったこと自体、アメリカ軍の政策的な寛大さが読みとれる。遂に旧軍人たちの乱れぬ魂の発露に驚かされ、一面ではその心情に悲哀感さえ感じられ、何ともやるせない。
十二、十三日の日誌には、梨本宮が隣室の八号室に移送され、福井県の捕虜収容所に勤めていた軍属と雑居生活が始まったこと。さらに食事時間には皆と同じように茶わんを手に並んでいること。そして「この2C棟の東側には西尾大将、鹿子木博士、広田広毅、安藤紀三郎、梨本宮殿下、畑俊六元帥、土肥原大将、西側には南大将、海軍の豊田副武大将、東條大将が。2Bには戸侯爵、酒井伯爵、賀屋蔵相、鈴木企画院総裁、その他顔も知らぬ一級の名士が扉を並べて居られる。偉感である。大戦中、大戦前の日本の指導者が殆んどここに集ってゐる。彼等の間に捕虜収容所関係の吾々大佐以下軍属に至る末輩が居る。奇観である」 また 「宮殿下と共に入浴。殿下も同様二十分間に洗顔、髭剃《ひげそ》り、身体を洗はれる。之もアメリカのDemocracyの現れだろうか」 と寸評も。
「二月十四日 木曜日 晴 昨日の新聞から。本間雅暗中将が比島軍事裁判で銃殺判決。銃殺は軍人として名誉なる刑であること。本間中将が米側取扱に判決言渡し前、謝辞を述べたこと。米国大審院は上訴を却下したことを報ず。山下泰文は絞首刑だったが本間中将は銃殺、大審院却下は同じ。却下に二人の判事が反対したことも同様で二判事の意見が出ている。
その一人フランク・マーフィー判事-本間裁判の如きものが米国憲法の高尚な精神で行はれないなら、吾々は正義への主張を放棄するか、復讐心に満ちた血の粛清という低水準へ堕落するに等しい。余は之に加担出来ない。沈黙の黙認さへもなし得ない。山下大将、本間中将の処刑は正当な法の過程を経ずに一連の法制的私刑への道を開くものだ。
又、マーフィー、ラットレッヂ両判事-マニラ裁判は強制的自供と群衆的反感を証拠に使ふことを許した、と抗議してゐる。
午前の散歩中、横浜法廷の経験者より横浜刑務所の法廷の事情聴く。本田は部下の残虐行為の責任者として二十年の重労働。
僕も第二回訊問で、タイラーが入倉中或は逮捕時に余の部下が殴打つしたとすれば一決して重大な事でなくタイラー死因が他にあることは明らかだがー余は分所長として責任を負ふと答え署名した。しかし、部下にその行為があったとすれば余の意志と命令に反す。余は再三この種の行為なき様訓戒したと陳述した。果して余の裁判は有罪か無罪か。此の点のみにて二、三日余の脳裡を来往する。九州の坂本大尉の裁判罪状項目のうち〝二十年四月ルーズヴュルト大統領死亡祝賀式に出席強要″とある。安藤閣下訊問受く」
翌十五日の記録-早く出所、解放され一家のために働きたいこと。十五歳までは純真で、十五歳-二十五歳は母の死で動揺期、根なし草だったこと。四十歳までは波乱、煩悶《=なやみ苦しむ》、生死の境地に立った時代。四十歳以後こそ生涯でもっとも意義あるも
のにしたいと強調。そして〝無罪釈放だ〃と神に誓って叫ぶ声を記している。鳴海分所で起きたワゴナー逃亡事件で被告の岡田少尉の弁護人から訊問を受けたこと。大牟田分所長福原大尉に〝絞首刑判決あり〟などと記している。
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編集者 (代理投稿)