捕虜と通訳 (小林 一雄)第二部・36
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編集者
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第八章
忘れ得ぬ〝鉄条網の友″捜し・2
次に米軍捕虜の最高指揮官であり私の戦犯容疑者としての巣鴨プリズン行きを救ってくれた恩人であるフランクリン・M・フリニオ大佐(FRANKlIN・M・FLINIAU)にコンタクトを試みた。
五十一年(一九七六)七月三十日。別れて三十年も経っている。別れる時に手渡してくれたカリフォルニア・ハリウッドの住所に宛てて電報を打った。
「こちらは生野キャンプ通訳だったファイヤ・ボール・小林です。お元気の事と思います。ぜひ一度お会いしたい。私が日本へご招待致したいので、お返事下さい。高丸商会 社長。」と云う内容で会社の住所・テレックス番号・電報略号・電話番号等を連絡した。だが、転居して電報が届かなかったのか、幾日待っても返事がなく、ナシのつぶてだった。やるせない気持ちで如何とも出来なかった。当時三十五歳ぐらいの彼の凛々《りり》しい姿を思い出しながら安泰を祈るのみだった。
「アメリカの友人ともぜひコンタクトしたい」と八方手をつくしたが、どうしてもわからず、途方に暮れたまま時が過ぎていった。ただ夢で会うだけの日々だった。
昭和五十六年(一九八一)夏、商用で知りあったロンドンに住むインド人貿易商が来日、雑談中、私の体験したイギリス人捕虜のことが話題になった。備忘録に記していた彼の名前と住所を示して帰英後、彼を捜してくれるよう依頼した。その名はイギリス陸軍のケネス・ジョージ・フロー中尉 (KENNETH・GEORGE・FROW)。大きな目、強度の近視メガネをかけ、物静かで温厚な話しぶりの英国紳士。当時二十五、六歳のやさしい将校だった。
彼は、私が昭和十九年 (一九四四) から二十年 (一九四五) の終戦時まで勤めていた兵庫県朝来郡生野町の大阪捕虜収容所生野分所に収容されていた捕虜の一人で連絡将校だった。ジャワ (現インドネシア) で日本軍に捕まり、和歌山の収容所から生野へ送られたが、私とはわずか半年ばかりの付き合いで、当時は二十五、六歳の若さだった。
イギリス人の捕虜では唯一人、友情を感じたフローさんとは、収容所で話す機会が多かった。英会話も教えてもらった。戦時中とはいえ、敵対国の壁を越えた〝友情〃が芽生え、終戦で別れる時がきた際には、大切にしていた扇子を一本贈った。妻、尚子が嫁入り道具の一つに持参し、私ら夫婦にとっては大切に保管していたものだった。こんな関係にあった彼だけに、チャンスがあればぜひ再会したい友だった。
知人のインド人貿易商も、こんな事情を知って親身になって捜してくれた。別れる時にもらった彼の古い住所メモをしらみつぶしに当たってくれた。その努力の甲斐があってついに新しい住所が判明した。その年、昭和五十六年十方に消息判明の手紙を受けとった。フロー中尉は戦後、帰国して大学に再入学、いまはロンドンで弁護士として健在であることがわかった。私はさっそく手紙を書いた。その直後、その年の末に懐しいフロー中尉から私に返信が送られてきた。
「ぜひ折りをみてお会いしたい。本当に懐しい」というものだった。嬉しかった。時機をみて会うことを決意し、すぐ返事を書いたが、当時、戦後三十六年を経て、捜し求めていた「異郷の友」と音信できた第一号となったのがイギリス人の彼だった。
忘れ得ぬ〝鉄条網の友″捜し・2
次に米軍捕虜の最高指揮官であり私の戦犯容疑者としての巣鴨プリズン行きを救ってくれた恩人であるフランクリン・M・フリニオ大佐(FRANKlIN・M・FLINIAU)にコンタクトを試みた。
五十一年(一九七六)七月三十日。別れて三十年も経っている。別れる時に手渡してくれたカリフォルニア・ハリウッドの住所に宛てて電報を打った。
「こちらは生野キャンプ通訳だったファイヤ・ボール・小林です。お元気の事と思います。ぜひ一度お会いしたい。私が日本へご招待致したいので、お返事下さい。高丸商会 社長。」と云う内容で会社の住所・テレックス番号・電報略号・電話番号等を連絡した。だが、転居して電報が届かなかったのか、幾日待っても返事がなく、ナシのつぶてだった。やるせない気持ちで如何とも出来なかった。当時三十五歳ぐらいの彼の凛々《りり》しい姿を思い出しながら安泰を祈るのみだった。
「アメリカの友人ともぜひコンタクトしたい」と八方手をつくしたが、どうしてもわからず、途方に暮れたまま時が過ぎていった。ただ夢で会うだけの日々だった。
昭和五十六年(一九八一)夏、商用で知りあったロンドンに住むインド人貿易商が来日、雑談中、私の体験したイギリス人捕虜のことが話題になった。備忘録に記していた彼の名前と住所を示して帰英後、彼を捜してくれるよう依頼した。その名はイギリス陸軍のケネス・ジョージ・フロー中尉 (KENNETH・GEORGE・FROW)。大きな目、強度の近視メガネをかけ、物静かで温厚な話しぶりの英国紳士。当時二十五、六歳のやさしい将校だった。
彼は、私が昭和十九年 (一九四四) から二十年 (一九四五) の終戦時まで勤めていた兵庫県朝来郡生野町の大阪捕虜収容所生野分所に収容されていた捕虜の一人で連絡将校だった。ジャワ (現インドネシア) で日本軍に捕まり、和歌山の収容所から生野へ送られたが、私とはわずか半年ばかりの付き合いで、当時は二十五、六歳の若さだった。
イギリス人の捕虜では唯一人、友情を感じたフローさんとは、収容所で話す機会が多かった。英会話も教えてもらった。戦時中とはいえ、敵対国の壁を越えた〝友情〃が芽生え、終戦で別れる時がきた際には、大切にしていた扇子を一本贈った。妻、尚子が嫁入り道具の一つに持参し、私ら夫婦にとっては大切に保管していたものだった。こんな関係にあった彼だけに、チャンスがあればぜひ再会したい友だった。
知人のインド人貿易商も、こんな事情を知って親身になって捜してくれた。別れる時にもらった彼の古い住所メモをしらみつぶしに当たってくれた。その努力の甲斐があってついに新しい住所が判明した。その年、昭和五十六年十方に消息判明の手紙を受けとった。フロー中尉は戦後、帰国して大学に再入学、いまはロンドンで弁護士として健在であることがわかった。私はさっそく手紙を書いた。その直後、その年の末に懐しいフロー中尉から私に返信が送られてきた。
「ぜひ折りをみてお会いしたい。本当に懐しい」というものだった。嬉しかった。時機をみて会うことを決意し、すぐ返事を書いたが、当時、戦後三十六年を経て、捜し求めていた「異郷の友」と音信できた第一号となったのがイギリス人の彼だった。
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