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羽生の鍛冶屋 本田 裕 39(奮闘記その8)

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通常 羽生の鍛冶屋 本田 裕 39(奮闘記その8)

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2013/4/6 7:57
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 「鍛冶屋を灯す準備」

 昭和52年秋、私の胸の内は、昭和10年頃まで、お祖父さん、お祖母さんが江戸時代から続けて来た、鍛冶屋業を営んでいた。青森県川内町の、むつ湾に流れ込む、川内川の河口のそばに、父は生まれたが私の父は家業を継がずに、上京し、日本橋の印刷屋に住み込み、働きながら現在の明治大学に通った。家業を父の兄弟達も役場や営林署などに勤め家業を継がなかったことから、江戸時代から続いた鍛冶屋の灯はお祖父さんの代で消えることになったのです。

 それから、40年間の間、大東亜戦争を経て終戦の年9月に再び、鍛冶屋の火を灯すことになる私が生まれたのであるが、幼年時代においては、鍛冶屋になることなど考えたこともなく、5歳の時は朝鮮戦争が勃発して、羽生の上空にも、轟音を響かせ輸送機が毎日通過して、私は、空を指差して、「そあ、そあ」と「ら」の発音が出来ず、空を指差しては、大人たちに笑われながら可愛がれていた記憶があります。小学6年ごろから、理科と社会が好きになり、特に気象や天文学に興味が出て大人になったら、気象庁に勤めたいと子供なりの夢がありました。

 しかし現実は夢を可能にしてくれず、14歳の頃から、父の健康が優れず、兄達3人は高校に進学出来たのですが、すぐ上の兄と、私は、就職への道を自ら決めたのです。特にすぐ上の兄は、中学1年から新聞配達をして、家計の足しをして、卒業したら新宿のパン屋に就職しました。

 私は、高校進学を諦め、気象庁に勤める夢も捨て、富士電機で技能訓練生の募集があり、5倍の競争率でしたが、何とか合格して、技能と技術への道に入ることになりました。

 父は青森の鍛冶屋のせがれ、母は羽生の農家の娘、その間に生まれたのが私であるが、先祖の血が私をじょじょに鍛冶屋の火を灯すようにしているのかと今にして見れば思えることである。

 3歳の時のまるまるした坊やが、30年後に羽生の鍛冶屋として再び鍛冶屋の火を灯すのですから、人の先のことは、分からないものである。添付写真は、幼年時代の私、先祖の家の町の風景、と昭和20年代の鍛冶屋の家で育った親族の写真を添付させて頂きますが、自分で農具、刃物を作ろうと腹が決まりだした以上、近隣の鍛冶屋見学、刀鍛冶鍛錬所での勉強、鋼材や、工具や、コークス、松炭、溶剤機器、ガスや、鉄骨や、棒や、などなど足を運んで準備体制に忙しくなることになりました。

 本田刃物店を開店して、半年後のことですから、無鉄砲と云えば、そういうことになるのでしょう。







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