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羽生の鍛冶屋 本田 裕 53

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通常 羽生の鍛冶屋 本田 裕 53

msg# 1.54
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1
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2014/9/4 6:44
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 

「バブルに向かう中で」

 羽生の縫製業は当時、東日本一と云われていた、ある日、お客さんが来て、「被服やも、あと10年過ぎには、駄目になるよ」と云ったと下請けの旦那が私に言った。

 私もすぐには受け止めなかったが、羽生の縫製業の歴史をひもどいてみると、高度経済成長の昭和30年代ごろから、東北から、ミシンの女工さんを受け入れていた反面、羽生より、東北へ工場を作った方が、安い賃金で使えるというのが被服やの経営者たちの考えでした。そして、昭和40年頃には、少しずつ日本経済の成長の波に乗って、工賃も、徐々に上がり始めました。東北へ工場を作る動き、羽生から故郷へ帰った技術を身につけた女工さんを指導者にして現地で人を集めて製造をはじめました。当時は羽生の被服やさんも、儲かって笑いがとまらなかったのではないかと思います。

 しかし、オイルショックを境に業界の物流は、商社の力で韓国の繊維製品が、日本のスーパー、問屋を通じて、衣料品店に並ぶようになりました。韓国製品と、「日本製品の品質か、韓国製品の価格か」の競争が始まりました。

 高度経済成長期に働く職場の広がった女性。年々日本の女性はミシン掛けを嫌うようになり、若い働き手の少なくなってきた業界は、国内生産から、安い外国生産に比重が掛けられていきました。
 安い外国製品に押され、日本の女性も低賃金の被服業界離れが始まり、若い縫子さんの集まらない時代が目に見えるようになりました。とはいっても、中高年のベテランが多い業界でありましたので、まだ、元気といえば元気といえる羽生の被服業界でした。
 ですから、私の所で扱っている、ハサミ関係は販売と修理においては、まだまだ、需要がありました。

 ところが、私に、「被服やも、あと10年過ぎれば駄目になる」と云ったお客さんの先見の明が当たる時がやって来るとは、昭和54年の時点では私にも読めませんでした。

 やがて来る、バブル崩壊、中国への工場進出が待ち構えているとは。・・・  

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