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羽生の鍛冶屋 本田 裕 48

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通常 羽生の鍛冶屋 本田 裕 48

msg# 1.49
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1
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2014/7/21 8:02
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 砕石用二徳万能という実用新案商品を作ってしまい、営業の経験のない私が、外商という、訪問販売の道を経験することになった。お客さんに来てもらって、ものを買って貰うことから始めた本田刃物店であります。突然の要望をうけたことが、販路を持たない私にとっては、外へ出て買って貰わなければならないことになってしまいました。

 開業して間もない本田刃物店です。製造も始めたばかりです。修理も、店売りも安定した状態ではありません。そんな中、砕石用二徳万能の販売は、私にとって、プラス面とマイナス面の貴重な経験をさせてくれました。

 販路の開拓を知らない私は、タウンページを広げて、水道工事店をピックアップして、行田市の水道工事店を住宅地図もって、訪問販売のスタートを切りました。営業の顔になっていない私は、固い表情で初めて水道店(太陽冷熱)のドアを開けました。昭和54年のことでありました。行田市では、10軒程の工事店を商品を持ち込み歩いて見ましたが、社長のいる時間帯がお昼休み、夕方5時過ぎでないと、お会いして説明できないことを教えられました。

 留守番の奥さんが親切に、「帰ったら話しておきますからまた来てください」とか、名前は忘れてしまいましたが、「羽生の水道やさんをよく知っているから、具合がいいようだったら電話するからまた来てくれとか」、買いそうな口調で、説明は良くさせてくれたのですが、最後には、「よかんべえ」と・・・結局、行田における始めての外商の成果は、3軒だけでありました。多くの日数と時間を費やしての行田市での外商の成果は3丁です。

 私は、営業の厳しさをまともに受けましたが、昔、通信教育大学講座の勉強をしていた昭和41年頃、世田谷東北沢の「いづみ編集社」で私の恩師、「高瀬兼介先生」が、私に「本田君、なァ、若い君は、これからの人生の先々で苦難にぶちあたるかもしれん。そう断言した方が現実的かもしれん。でもなァ、負けてはならんぞ、いいか自分に負けてはならんぞ」と云って、苦難にぶち当たった時それが全部苦しみだと思ってはならん、苦しみのドラマの中に必ず誠意を表わしてくれる人がいるものだ、そういう出会いがあったら、その誠意に応えるべく精いっぱい頑張れよ・・・」と人生論をしてくれたことを思い出しました。

 そして、私は、あきらめることをせず、二徳万能を加須市、館林の水道工事店に、店の仕事時間を調整して、売り歩くのでした昭和54年春ごろのことです。

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