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羽生の鍛冶屋 本田 裕 44

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通常 羽生の鍛冶屋 本田 裕 44

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿.1 .2 | 投稿日時 2014/4/24 6:53
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 高度経済成長期の応援歌「あぁ上野駅」 

 昭和39年、井沢八郎が唄った「あぁ上野駅」は日本中の人々の心を響かせた。今から50年前に大ヒットした「あぁ上野駅」のことを書き綴るきっかけが起きました。

 昭和39年といえば、東京オリンピックが開催された年でもある。また、私にとっては、富士電機の技能訓練所を卒業して、現場に配属され、配電盤、変圧器、遮断機の製品制作現場に就いた年でもありました。当時の富士電機は、川崎、日野、千葉、松本、四日市、そして吹上と六事業所があり、私が7年間勤務した吹上工場も、当時、従業員は2500人位いて、マグネットスイッチの製造増産で、従業員の募集が掛けられ、県内はもとより、東北地方からの就職者も多く目だっていました。会社では、女子寮を建て、男子には、借り上げ宿舎を用意して、雇用受け入れ体制を整えていました。どこの職場にも、福島、宮城、山形、岩手出身の従業員が機械工場、電気組み立て工場、板金、溶接工場で汗と油にまみれて、頑張っておりました。季節工といって、半年間の契約で近隣や東北から働きに来ていた人も100人位はいた記憶があります。当時は人手不足で、中学卒の若い働き手を金の卵と呼ばれた時代でもありました。東北線に乗って東京に夢を膨らませてやって来た人の数は、高度経済成長期にどれくらいいたのでしょうか、私には数えられないことです。私がいた板金工場は120人程ですが、途中入社の人は3か月の見習い期間を経てから正規雇用になる順序をたどりますがそれらの中には、集団就職で上野について京浜工業地帯の中小会社に就職して、挫折を味わい転々と渡り、吹上工場にたどり着きやっと自分の居場所を見つけたと生き生きと輝いて働いていた人がいたことを思い出しました。



 昭和40年、通信教育大学講座を勉強する機会が出来、月に1度は東京に出かけるようになりました。そして、上野で中学生が行列して上野駅の改札口を通り、広小路口の方へ歩いて行く列を目にしたことがあります。今思えば、3月の終わりの頃とだったので、修学旅行ではなく、あの行列が集団就職で来た東北の中学生だったのだと今にして思うのであります。その時には、井沢八郎の「あぁ上野駅」の唄が毎日のようにテレビから流れておりました。さて、今、何故、50年前のことを書くことになったかということですが、「あぁ上野駅」を作詞した関口義明先生は、羽生市の出身なのです。残念なことに関口先生は平成24年8月72歳で他界されました。そして、平成24年12月、私の知り合い同志が一藤うどん店で、宮崎出身の70歳の森山さんから、羽生生まれの83歳の羽生実業高等学校の関口先生の先輩である長谷川さんに、あんな素晴らしい、詩を作った人を何もしないでいいのかと、火がつけられました。長谷川さんは、よし、羽生市のために役に立つようなことをしょうと固い、熱い闘志が湧いてしまいました。火が付いてしまったからには、もう止まりません。詩に対する功績を讃え、顕彰碑を建てようという決心となりました。顕彰碑を建てる場所は、利根川昭和橋際、「道の駅はにゅう」となり、国土交通省の管轄する河川法にはまる場所だけに、市の力を借りなければ到底できないことであり、市長の協力と遺族の了解、発起人会の結成、羽生市観光協会、地元自治会、羽実同窓会の協賛、そして、「関口先生を偲ぶ市民の会」を結成し8588名の賛同署名を集め、11名の役員の奉仕と関口先生の奥様から、多額の寄付を頂き、「関口義明先生を偲ぶ顕彰碑建立実行委員会」は、羽生市の商工課が窓口になって、国土交通省利根川上流河川管理局からの許可が僅か申請から20日間で下りました。びっくりする間もなく、電源はソーラー発電の設計でボタンを押すと「あぁ上野駅」の唄が流れる顕彰碑の工事に取り掛かり、その間に著作権許諾の手続き、除幕式の準備、3月30日を目指し、市長、議長、国会議員、県会議員、羽実同窓会長、羽実校長、地元、川俣地区自治会長、前会長、市役所担当部課長、関口先生の地元歌手の後援会、賛同に協力した市民、そして、ゲストとして、あぁ上野駅を唄っている歌手「立花英樹」そして後援会の皆さん総勢二百数十名の出席による盛大な除幕式となりました。

 私が今回、顕彰碑建立に関わったというのは、一生一代の「俺は諦めないと云った84歳の長谷川会長の大決断を成功させることでありました。だから私は終始、役には就かず無役を以って高齢の長谷川会長が最後までやり通せるように補ってやることでした。

 午前8時~午後5時まで、ソーラー発電でボタンを押すと「あぁ上野駅」が順調に流れます。高度経済成長期の思いでが蘇って来るでしょう「道の駅はにゅう」に是非お越し下さい。

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