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心のふるさと・村松 元少通生らが寄せる村松への思い 28

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通常 心のふるさと・村松 元少通生らが寄せる村松への思い 28

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2014/2/21 6:50
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 終戦前後の村松少通校  その1

   
     十二期五中隊三区隊 橋本 雅吉

 八月十五日の終戦を村松少通校で迎えた我々にとって、わずか一年三ケ月であったが、村松は、戦車の思い出と、戦後の出発として数多くの思い出を今日に残しています。

 そこで終戦前後の村松少通校はどうなっていたのかの記憶に残っている当時の状況を記してみたいと思います。

 村松少通校の生徒隊は、一中隊から八中隊(光、武、南、芳、岩、向、波、矢)で昭和二十年三月第十一期生が出陣し、一時は十二期生のみ(五~八中隊)でしたが、四月に、十三期生が入校し、再び一千六百名の生徒隊となりました。昭和二十年七月ごろになると戦雲ますます急を告げ、この頃から村松少通校にも大きな変化がありました。

 その第一は、少通校の練兵場の一部に軍用航空機用の滑走路(菅名村寄り、練兵場の東→西)の設置が本格化し、施設隊も到着し、工事がはじまりました。我々も使役として作業に参加しました。滑空路と言っても簡単なもので、練兵場の芝生をそのまま活用し、タコツボを埋め、ローラーでならす簡単なもので、八月上旬には完成し、単発の軍用機が一日、二、三回程度発着するようになりました。一方、食糧自給の一端として、練兵場の一部を農場とし、四月ごろから、サツマ芋や、カボチャ等の作付けも行われました。

 また、現在慰霊碑のある愛宕山の中腹に通信機を格納するための横穴式地下壕掘りもこのごろ急ピッチで工事が進められました。
 米軍機の日本に対する空襲がますます烈しくなるころ、新潟方面に対する空襲は少なく村松上空に飛来したのは七月下旬の一回のみで、二機が高度五千米ぐらい(目視で約三十センチの大きさ)でした。

 その時の状況を申しますと、午後三時ごろ空襲警報が発令され、我々射撃班は、九九式短小銃と、弾薬箱を持って校内に掘ってあるタコツボに入り射撃体制に入りましたが、今、思うと、小銃対飛行機では笑い話にもなりません。

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