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心のふるさと・村松 元少通生らが寄せる村松への思い 27

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通常 心のふるさと・村松 元少通生らが寄せる村松への思い 27

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2014/2/20 7:56
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 私の三月十日  その4

 この夜新潟行列車が発車してくれたからよかったのであるが、若し沿線の駅が爆撃を受けて列車が動かなかった。としたらどうなっていたであろうか。と思うだけでも背筋が寒くなるのを今もおぼえる。

 この空襲により、東京十一期の故尾川吉一君と、村松十一期の故桑山重君のお二方が、焼夷弾の猛火に遭われて帰らぬ鬼籍の人となられた事も最近になってやっと知る事が出来たのです。この夜、もしもあの烈風が吹かなかったとしたら、或は私の頭上にも焼夷弾が落ちてきたのではなかろうか。その時はきっと焦熱地獄の中で苦しみもだえて死んでいったかも知れないと、今も尚、そのように感じられてならないのである。

 あの日から四十年の永い歳月が矢の如くに流れていった。あの峻烈な記憶は年と共に少しつつ薄れてはゆくが、無抵坑な人達を無差別に爆撃をして殺戮し、そして大切な人の命を露よりもはかなく消していったこの戦争の悲しみを、決して子供や孫達に味合わせたくないものと強く胸に秘めていると同時に、比の夜亡くなった戦友や多くの犠牲者に対し、心からの御冥福をお祈りする次第です。

 太平洋戦争下、米軍による東京空襲は、昭和十七年四月十八日のB二五中型爆撃機による初空襲によって開始をされたが、その後二年数ヶ月にわたり空襲は無かった。そして昭和十九年に十一月二十四日になって東京は本格的な空襲を受ける様になったのである。

 以後昭和二十年八月十五日の無条件降伏の日まで約九ケ月の間、約百三十回、休みなく空襲が続けられたが、その中でも昭和二十年三月十日の墨東方面を重点にした空襲は、B二九 三百三十四機が超低空で無差別に、住宅密集地を焼夷弾の絨緞爆撃を行なったのであった。この爆撃で下町方面は一夜にして廃墟と化し、約十万人が死んでいったのである。

 (昭和六十三年・かんとう少通)

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