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心のふるさと・村松 元少通生らが寄せる村松への思い 30

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通常 心のふるさと・村松 元少通生らが寄せる村松への思い 30

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2014/2/22 7:06
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 終戦前後の村松少通校  その2

 終戦直前になると、隊の動きも目まぐるしくなり、五中隊は、全員疎開することとなり、大蒲原村を中心に、我々三区隊は、十全村小学校に八月十三日疎開が完了し、小学校の講堂には通信教育用の設備も設けられ、校庭には天幕を張って露営生活の準備も出米ました。
 また、衣類、資材等についても十全村の農家の土蔵を借用し、すべて疎開が完了しました。

 しかし、この疎開生活も 二晩だけで、終戦当日の八月十五日は、玉音放送を聞くため、完全軍装で、少通校に戻ることになり、他の区隊と合流し、途中、村松町郊外の日枝神社に参拝し、午前十一時ごろ少通校に戻り、全校生徒整列し、正午から本部より流れた玉音放送を聞きました。

 当初、我々は戦局烈しき中で、なお一層の奮起を求める放送と信じていたところ、戦争終結であることがわかり、全く途方にくれ、呆然となりました。

 その後、我々は再び隊に戻り、九月一日の復員までの間、九九式短小銃の菊の紋章を削ったり、不必要晶の焼却等の作業を行い、九月一日から復員を開始しました。

 なお戦後、少通校を逓信講習所として開校する予定でしたが、この案は中止されました。

 戦後の少通校の建物は、昭和四十五年の第一回慰霊祭当時には、大部分残っていました。しかし現在、そのまま残っている建物は、極めて少なく、ただ、学校本部前の営門の外側にあった哨舎がそのまま残っており、慰雪祭の時には必ず散策する場所の一つになっています。

 このように、かつては雪中訓練や、通信演習の場として名の知れた村松もいつしか桜の名所と化し、多くの人のいこいの場となっています。
 なお終戦当時、陸軍大臣より全軍にあてた訓告がありましたので記しておきます。


 
 訓 告

 玉に停戦講和の御聖断を拝す。全車の将兵は烈々たる闘魂の下、或は万里の異域に勇戦敢闘し、或は皇土の防衛に満を持して準備を進めつつありし所、今や泣いて戈を収むるに至れり、皇国苫難の前途を思えば萬感極まりなし。

 至尊亦深く此の間を精察せられ然も、尚大局のため非常の御決意を以て、大命を宣し給えり。

 全軍将兵は真に涙を呑み激情にただよることなく、又、冷厳なる事実に目を覆うことなく、冷静真撃一糸乱れざる統制の下、軍秩を維持し粛然たる軍容を正し、承詔必護の一途に徹すべし。

 至尊は「汝等軍人の誠忠遺烈は、萬古国民の精体たるを信ず」との優諚を垂れ給う、光栄何ものか之に加えん。

 全軍将兵宜しく此の光栄を体し、高き衿持をもて、千辛萬苦に克ち、忍び難きを忍び森厳たる皇軍の真姿を顕揚すべし。

 昭和二十年八月十七日         陸軍大臣

 (昭和六十二年・かんとう少通)

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