[掲示板へもどる]
過去ログ [ 0007 ]

過去ログ:
ワード検索:
条件: 表示:  過去ログ一括   

[No.4206] Re: モンチャン、マーチャンの北イタリア珍道中 55 投稿者:マーチャン  投稿日:2015/08/23(Sun) 06:57
[関連記事


画像サイズ: 960×539 (93kB)
 雨傘通り商店街 です。


[No.4205] モンチャン、マーチャンの北イタリア珍道中 55 投稿者:マーチャン  投稿日:2015/08/23(Sun) 06:56
[関連記事


画像サイズ: 640×373 (90kB)
 おしゃれな街 フェラーラ その2

 サン・ジョルジョ大聖堂

 文字通りの大聖堂です。12〜13世紀に造られたロマネスク・ゴシック様式。ファサードがすばらしい。イタリアしい華やかさがあります。像の上の部分の彫刻も手が込んでいます。
 お堂の中もイタリアらしく、というかフェラーラらしきというべきか洗練されているように感じました。

 このお堂の特徴は、奥行きが長いこと。
 しかも、面白いのは1階がアーケードになっていてブランド物などのお店が並んでいることです。
 普通は「お寺参りの後は、門前町でのお買い物をお楽しみください」ということになるでしょう。それが、あなた、お堂でお買い物ができちゃうのですね。結構割り切っているのだなと、と感心しました。でも、あれだけ大きな建物の維持費を考えるとグッド・アイディアかもしれませんね。

 ところで、地元には、この観光スポット群から見えるところに、もう一つショッピング・ストリートがあるのです。写真でご覧いただけるように、通り全体が「色とりどりの傘」で、デザインされているのです。イタリアらしい、ちょっと行ってみたくなる楽しいデザインですね。もちろん行ってみました。さすが「歴史上初のルネッサンス都市計画に基づいた都市」であることをもって世界遺産に登録された街だけのことはあります。
 ごく普通の商店街で、スマホ屋さん、洋品店、スポーツ用品店、電気屋さんなどが並んでいましたが、まあ、そこそこの人出で賑わっていました。


[No.4204] Re: モンチャン、マーチャンの北イタリア珍道中 54 投稿者:マーチャン  投稿日:2015/08/22(Sat) 09:43
[関連記事


画像サイズ: 359×640 (93kB)
 これが、件の サボナローラさんの像です。


[No.4203] モンチャン、マーチャンの北イタリア珍道中 54 投稿者:マーチャン  投稿日:2015/08/22(Sat) 08:26
[関連記事


画像サイズ: 640×359 (88kB)
 おしゃれな街 フェラーラ その1


 夜のうちに、船は「ポー川」デルタを遡って「ポレゼッラ」の港に着いていました。
 4日目のエクスカージョンは「ボローニャ」と「フェラーラ」のどちらかだったのですが、我々は「フェラーラ」へ行きました。あんまり日本からの観光客が行くところではありませんが、なかなかおしゃれな街です。とくに「ギャル」「元ギャル」にはおすすめの街です。

 15世紀の終わり頃、この辺りを収めていた「エステ家(エステティシャン・チェーンで財力を蓄えたわけではありません)の宮廷文化」が花開いたのです。
 その時期から「美しい町並み」を持つ品格ある街づくりを目指していたのです。
 という訳で1995年には早くも「フェラーラのルネサンス期の市街とポー川デルタ地帯」がユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されています。

 まず、エステ家の居城「エステンセ城」。掘割で囲まれた堅牢強固なお城ですが、これは、増税につぐ増税に反発した市民からエステ家を守るためだったと言われています。「理想都市」の構築にはお金も要りますよね。 
 大砲も、地下牢もあります。でも、やはり美しいお城でした。お城に続いて「市役所」があります。

 お城の脇には、ご当地出身の「サボナローラ」の像が。
 この方は、あえて誤解をも恐れずに言いますとわが街、藤沢市とご縁の深い「日蓮聖人」みたいな方。フィレンツェのサン・マルコ修道院の院長になった宗教家なのですが、説教壇から炎の如き過激な言葉で「メディチ家」も「当時のローマ法王」も激しく批判した。
 そして、もう一つの「業績?」が「ゼイタクは敵だ」のスローガンのもとに美術品を集めて焼き払ったことです。もし、とことんこれをやられたら後のフィレンツェの観光事業は成り立たなかったかも知れません。あのほんわかした「プリマベーラ」を描いたボッティチェッリも震え上がっていたそうですから。
 最後は激しい拷問の末、火あぶりの刑に処せられたーーーという超過激な方です。


[No.4202] Re: モンチャン、マーチャンの北イタリア珍道中 53 投稿者:唐辛子 紋次郎  投稿日:2015/08/21(Fri) 23:49
[関連記事


画像サイズ: 494×660 (87kB)

>  注文はセルフです。500円くらいですが日本だって500円のコーヒーは珍しくはありません。←カウンターの飲めば、少し安くなる。

  『謎のコーヒー』の謎がやっと解けた。tuttopadovaというサイトによれば、あのグリーンの入ったコーヒー「カッフェ・ペドロッキ」は、エスプレッソにミントのシロップで風味づけした、泡状のラッテを載せたものだそうです。

 そのほか、この店には、常連だった作家スタンダールにちなんだ「ザバイオーネ・スタンダール」というのも、あったよし。


[No.4201] Re: モンチャン、マーチャンの北イタリア珍道中 53 投稿者:唐辛子 紋次郎  投稿日:2015/08/21(Fri) 23:19
[関連記事


画像サイズ: 610×376 (91kB)
> ただものではない コーヒー屋さん

> さて、ご一行様は、パドヴァ大学からシニョーリ広場へ。

 ガイドさんは「はい、あちらに時計塔が見えますね。あの時計塔が、次の集合場所です」とおっしゃいます。今度こそ、間違えないようにと、まず「時計塔」へ行き、近くにある建物などを観察しました。

 何しろ、このあたりには「広場」が多いのです。
 市民のお買い物スポットなのですね。「シニョーリ広場」のほか「エルベ広場」「フルッタ(果物)広場」。これがお互いに接するように並んでいますし、似ているのです。


この塔というものが、曲者でね。「この辺に塔がありますか?」なんて、聞こうものなら相手に「何塔?と云うのは、この街には塔なんてものは少なくともトオ以上はあるからね」なんて切り返されちゃう紋ね。(-_-;)塔の名前を記憶しておくことが必須。

> さて、パドヴァには「大学」「寺院」以外に、もう一つ人気の観光スポットがあります。
それが「カフェ・ペドロッキ」という、由緒正しき、やんごとなきコーヒーショップなのです。
まるで宮殿みたいな建物にびっくりしますよ。

 「イタリア紀行」の訳者によると、スタンダールが足を運んだ頃と今の建物は全く違う由。精力的なスタンダールの場合はあっしらのばやいと違って、「毎晩、午前三時に」お「夜食」だそうで、驚く。また、サテンではなく「たいへんすばらしいレストラン」と書いている。

> ここは、創業1831年、パドヴァのシンボルともいうべき、最も歴史あるカフェなのです。
おそらくパドヴァ大学の先生たちが、ここでコーヒーを啜りながら、新聞や、本を読んだり、おしゃべりをしたのでしょうね。
あのフランスの作家でモンチャンに負けないくらいの「イタキチ」のスタンダール氏が「イタリアで一番美味しいカフェ」と絶賛したといわれているコーヒー屋さんなのです。 ま、コーヒーショップの聖地みたいな存在ですね。

 きょう、町の図書館から、スタンダールの本、臼田紘訳「イタリア紀行」を借りてきてざっと見た。オドロイタのはこの騎兵士官殿は、3か月もの暇をもらってイタリア全土を歩き回り、忙しい中、恋のアヴァンチュールも少なからず、こなしている。額賀元長官どころのハナシじゃない。だいたいスケールが違う。ところで、

 コーヒーが発見されると、イタリアでも1700年代から1800年代にコーヒーを飲む習慣が広がり始めたということです。現在の店舗の場所を決めたのが、ベルガモの出で、フランチェスコ・ペドロッキというひと。ここは大学にも、市役所にも、市場にも、芝居小屋にも郵便局(現在は銀行)にも近くまさにベストロケーション。

> 長い間パドヴァ市の管轄(市営)だったのですが、一年前からミラノのホテルが経営することになったのですが、多少の改装はしたものの、以前とそう変わっていないそうです。

> 注文はセルフです。500円くらいですが日本だって500円のコーヒーは珍しくはありません。
やはり美味しい。なんと申しましょうか、熱いコーヒーの上に冷たいクリームを浮かべてチョコレート・パウダーを散らしたもの。熱いような冷たいような、コーヒーのようなココアのようなお味でした。
 
> はい。今回は、間違いなく「正しい集合時刻に、正しいミーティングスポット」へ行くことが出来、みなさんとご一緒に船に戻ることができました。

  ちょっと調べてみるとけっこう複雑。このフランチェスコの息子、アントニオが店の儲けを有効に活用して,いろいろと拡張したらしい。で、1852年アントニオが死んだ。彼は誰か信用のおける人に後を継いでもらいたかった。そこで、ボーイの息子のカッペッラートを養子にした。これが、1891年に死んだ。その後、パードヴァに経営が引き継がれた、が、死の数か月前に書かれた公文書によると、本人はパードヴァの市民に引き継いでもらいたかったようだ。そんな経緯があったようだ。

 ちかくに(2階の一部と書くものもある)『リソルジメント博物館』というのがあって、そこに、創立者アントニオと後継者カッペラートの肖像画がある由。


[No.4200] Re: モンチャン、マーチャンの北イタリア珍道中 53 投稿者:マーチャン  投稿日:2015/08/21(Fri) 07:02
[関連記事


画像サイズ: 640×359 (93kB)
 注文は「セルフ方式」。しかし「食器」は貫禄があります。

 コーヒーは、いくら高級品でも、紙コップやプラスティク・コップから飲むのでは興ざめですね。


[No.4199] モンチャン、マーチャンの北イタリア珍道中 53 投稿者:マーチャン  投稿日:2015/08/21(Fri) 06:57
[関連記事


画像サイズ: 640×359 (86kB)
 ただものではない コーヒー屋さん

 さて、ご一行様は、パドヴァ大学からシニョーリ広場へ。
 ガイドさんは「はい、あちらに時計塔が見えますね。あの時計塔が、次の集合場所です」とおっしゃいます。今度こそ、間違えないようにと、まず「時計塔」へ行き、近くにある建物などを観察しました。
 何しろ、このあたりには「広場」が多いのです。
 市民のお買い物スポットなのですね。「シニョーリ広場」のほか「エルベ広場」「フルッタ(果物)広場」。これがお互いに接するように並んでいますし、似ているのです。

 さて、パドヴァには「大学」「寺院」以外に、もう一つ人気の観光スポットがあります。
 それが「カフェ・ペドロッキ」という、由緒正しき、やんごとなきコーヒーショップなのです。
 まるで宮殿みたいな建物にびっくりしますよ。

 ここは、創業1831年、パドヴァのシンボルともいうべき、最も歴史あるカフェなのです。
 おそらくパドヴァ大学の先生たちが、ここでコーヒーを啜りながら、新聞や、本を読んだり、おしゃべりをしたのでしょうね。
 あのフランスの作家でモンチャンに負けないくらいの「イタキチ」のスタンダール氏が「イタリアで一番美味しいカフェ」と絶賛したといわれているコーヒー屋さんなのです。 ま、コーヒーショップの聖地みたいな存在ですね。

 長い間パドヴァ市の管轄(市営)だったのですが、一年前からミラノのホテルが経営することになったのですが、多少の改装はしたものの、以前とそう変わっていないそうです。

 注文はセルフです。500円くらいですが日本だって500円のコーヒーは珍しくはありません。
 やはり美味しい。なんと申しましょうか、熱いコーヒーの上に冷たいクリームを浮かべてチョコレート・パウダーを散らしたもの。熱いような冷たいような、コーヒーのようなココアのようなお味でした。
 
 はい。今回は、間違いなく「正しい集合時刻に、正しいミーティングスポット」へ行くことが出来、みなさんとご一緒に船に戻ることができました。


[No.4198] Re: モンチャン、マーチャンの北イタリア珍道中 52 投稿者:マーチャン  投稿日:2015/08/20(Thu) 08:39
[関連記事


画像サイズ: 640×359 (89kB)
高いところにある、こういう「レリーフ」を見ますと、それがラテン語だったりすると、やたらありがたがるクセがあります。


[No.4197] モンチャン、マーチャンの北イタリア珍道中 52 投稿者:マーチャン  投稿日:2015/08/20(Thu) 08:23
[関連記事


画像サイズ: 640×359 (93kB)
 パドヴァ大学

 というわけで、また、足弱組のみなさんとご一緒に見物を続けました。

 実は、繁栄していたベネツィアに大学ができたのはやっと150年前。
 一方、パドヴァ大学は、ボローニャ大学に次いでイタリアで二番目に古い大学なのです。
 単に古いだけじゃないのです。この大学の歴史には、有名人がたくさん登場します。
 筆頭は、あのガリレオ・ガリレイ。1592年から18年間パドヴァ大学の教授でした。そして幾何学、数学、天文学なんかを教えたのですね。ガリレオ先生、画期的な数々の発見をしことも高く評価すべきですが「実験結果を数学的に記述し分析するという手法」すなわち近代的な学問の仕方を採用したはじめての学者なのですって。ですから「科学の父」と呼ばれているのですね。

 例の「それでも地球は回っている」という有名なコメントですが、もともと、ガリレオは敬虔なローマン・カトリック教徒だったのですね。しかし、よくある話ですが、人間関係に関しては不得手で、ついには彼のことを快く思わない連中によって、彼の支持した地動説を口実にして異端審問で追及されるような事態になったのだそうです。どうやら、然るべき場所で「それでも地球は回っている」と言ったわけではないらしいのですが、彼の気持ちはこの通りだったのでしょう。
 こういう個性的な先生がパドヴァ大学で長く教えていられたのも、パドヴァ大学に自由に学問をする気風があったからでしょう。

 このほか、政争に敗れてフィレンツェを追放されたダンテも、詩人ペトラルカもここで教えていたことかあるのですね。  
 また大学内には1594年に作られた世界で最も古い解剖学教室があるだけあって医学部は名門と言われています。
 近くは、鬼才といわれた異色の指揮者、ジュゼッペ・シノーポリさんもここの医学部のご出身です(もとは精神科医)。2001年にベルリンドイツ・オペラで「アイーダ」を指揮中に心臓発作で倒れてオーケストラピットで亡くなりましたが。

 パドヴァは、この大学が街の中央に鎮座ましましている大学街なのです。


| 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 17 | 18 | 19 | 20 | 21 | 22 | 23 | 24 | 25 | 26 | 27 | 28 | 29 | 30 | 31 | 32 | 33 | 34 | 35 | 36 | 37 | 38 | 39 | 40 | 41 | 42 | 43 | 44 | 45 | 46 | 47 | 48 | 49 | 50 | 51 | 52 | 53 | 54 | 55 | 56 | 57 | 58 | 59 | 60 | 61 | 62 | 63 | 64 | 65 |