画像サイズ: 254×435 (12kB) | 知らないほうがいいこと 後編
楽しんでいた「飲み会」は、急遽中止となり、スチュワデスさんは、バタバタと片付け始めた。 そして、突如、着陸態勢に入ったのであった。
飛行機を降りて、パスポートコントロールを通り過ぎたところで、我々は、何人かの男性に包囲された。そのうちの一人が「Y新聞のナントカと申します。無事でよかったですね。怖かったでしょう」と仰せられたのである。聞かれた方は「きょとん」としていた。逆に乗客側から「何のことですか」と質問する始末。
実は、乗っていた飛行機の機体は、マグダネル・ダグラス社のDC10。 この機種は、それまでもいろいろトラブルがあったらしいが、 極めつけは1979年5月25日にはアメリカン航空のロサンゼルス行き191便がシカゴのオヘア空港を離陸した直後に墜落、死者273人を出した大惨事。この事故が機体そのものの欠陥によるとの見方から、アメリカ連邦航空局はDC-10の耐空証明(自動車の車検に相当)の効力を一時停止したため、他の国の航空当局も追随、全世界のDC-10が急遽、運航禁止になった。(これは、のちに冤罪で機体整備上の問題とわかり、7月11日に解除された) ところが、それを知ってか知らずか、スイス航空は離陸してしまったのであった。
香港も、日本の運輸省(現・国土交通省)も、乗り入れを拒否した。ついに、スイス航空は「さまよえる航空機」になってしまっていたのであった。 機長と管制塔との激しいやり取りが続いていたようだ。そしてついに「いよいよ燃料がぎりぎりになりつつある。他の空港を目指すという選択肢はない。乗客のうち80名は成田でおりる。その乗客のなかに大勢の日本人がいるはずである。この乗客を道連れにすることは覚悟のうえだろうな」と言い出した。これを聞いて当局は慌てたらしい。そして、おそらく官邸に相談の上、人道上の理由で「着陸許可」を出してくれたらしい。 機長が情報を公開しなかったために我々は何も知らずに、キャビンでたのしく過ごせたのである。 ときには「知らないほうがいいこと」もありますね。(知ったところで我々には、何もできないもの) ―――という訳で、この旅も無事終わりました。お読みいただきましてありがとうございます。
明日からは「新世界(カナダ・アメリカ)の旅(1980年)」をお送りします。 よろしくお願い申し上げます。 |