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[No.4499] Re: 青森駅から夜行列車で北海道へ雪見に 投稿者:男爵  投稿日:2016/05/04(Wed) 05:37
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根室本線にある芦別
芦別は炭鉱の町で一時は人口が7万人もあったのですが
石炭は石油に負けて
今では人口は2万人を割りました。

芦別にはカナディアンワールド公園があります。

元々は三井芦別炭鉱の閉山による産炭地の斜陽化の対策の一つとして、1988年(昭和63年)3月に設立され
第三セクター「星の降る里芦別」が約52億円の工費を投じて建設し、1990年(平成2年)7月29日にカナディアンワールドというテーマパークとして開園したものです。

開設時にはプリンス・エドワード島にあるものを忠実に再現した
「赤毛のアンの家・グリーンゲイブルズ」や「リンド夫人の家」などがあり、人気を呼びました。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%8A%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%89%E5%85%AC%E5%9C%92
  本家の「赤毛のアンの家・グリーンゲイブルズ」が火事で焼けたとき、芦別市に残っていた建物の図面から復元したということです。

俳優の水谷豊は芦別出身です。


[No.4498] 富良野の小学校の二宮金次郎像 投稿者:男爵  投稿日:2016/05/03(Tue) 18:28
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> 富良野です。
>
> 富良野は昔から北海道の中央にあるとPRしてきました。
>
> 富良野は根室本線と富良野線の交差点

北海道の二宮金次郎の像を集めたサイトがあります。

富良野市立東山小学校(1981年統合により樹海西小へ)
の二宮金次郎の像
http://haikouinspect.web.fc2.com/P117033811.jpg


[No.4497] ヨーロッパのあっちこっちへ 11 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/05/03(Tue) 07:29
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  暮らしのなかに歴史が

 こうなると、先ず宿探しからはじめなければならない。ここ山間の村では、すでに陽も影ってきており、六月だというのに風も冷たくなっている。お寺の鐘のきこえるほうが村の中心地の筈なのでそっちの方向へ向けて歩きだした。しかし、村道はがらんとしていて観光客の影もみえないし、民宿らしい家もない。なんとなく不安になってきた。やっぱりスキーシーズンでも避暑シーズンでもない今は民宿はやっていないのであろうか。
 しょんぼり歩いてお寺のすぐ近くまでくると小さな農家の軒に「ZIMMER(部屋あります)」と書かれた板切れがかかっていた。家の前で子供が5人ほど遊んでいる。なかからおばあさんがでてくる。やれやれである。

 さっきの会話の本で憶えたとおり「ウナ カーメラ ウナ ノッテ」といってみる。
 するとおばあさん「ヤー ヤー」という。「ええと、クワント コスタ?(宿賃は?)」「フィユンフ タウゼント(5000リラ)」と答える。どうやらここではドイツ語一辺倒のようだ。これでは、国境の駅であわててイタリア語の予習をする必要はなかったんだ。

 いずれにせよ、心配していた宿賃のほうも朝食付きで1200円ということであればなんとかなるのでこの家に泊めてもらうことにした。お客を泊められるのは二階の一部屋で、骨董品的なダブルのベッドの他、タンスなどの家具があり、バルコニーにはいかにもチロルらしくゼラニュームの鉢がならんでいる。部屋も清潔でベッドには可愛い花柄のベッドカバーがかかっていた。部屋のそとにはトイレとシャワーがある。恐らくお嫁にいった娘さんの部屋かなにかだったのであろう。家庭的でくつろげる家である。
ここに決めた。


[No.4496] 石川啄木の空知川の短歌 投稿者:男爵  投稿日:2016/05/03(Tue) 05:47
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> さて、札幌から富良野経由で釧路に行くとしたら
>  札幌−滝川−富良野−新得−釧路
> となります。

> あの石川啄木は空知川の短歌を詠んでいますが
> 滝川から富良野までの間で車窓から空知川が何度も見えるのですが
> 実際には,啄木は富良野から新得の間の車窓で空知川を見たようです。

  空知川雪に埋れて鳥も見えず 岸辺の林に人 ひとりゐき

滝川−赤平−芦別−富良野
この間の鉄道では空知川は何度も車窓から見えるのですが
当時この鉄道路線(根室本線の一部)はまだできていなくて
啄木は 滝川−深川−旭川−富良野−新得 と鉄道の旅をしたのです。
 函館本線、富良野線、根室本線

したがって,啄木は富良野から新得の間の車窓で空知川を見たと思われます。

  空知川流域(鉄道路線との関係がよくわかる)
http://river.longseller.org/rc/8101030250.html

啄木は小樽から釧路の新聞社に勤務するため
函館本線で移動して、旭川の宿に泊まり
夜になって合流した白石社長に伴われ翌朝
富良野、新得、帯広と経由して釧路に行ったのでした。

旭川駅にある石川啄木像は、当時の啄木の旅行姿だそうですが
なんとなく宮沢賢治調です。


[No.4495] ヨーロッパのあっちこっちへ 10 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/05/02(Mon) 09:06
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  やりくり三味のドビヤッコ暮らし

 これで急場はしのげたが4000円ではいくら当時は物価の安かったイタリアでも2日間はもたない。
 ここで、かりそめのバカボンドとしての自分をうしろにひっこめて銀行員としての自分に登場してもらう。
 方策としては2つ考えられる。一つはクレジットカードの通用しそうな国際観光ホテルに泊まる。恐らくコルチナダンベッツオまで足を伸ばせば見つかるのであろう。2つ目は、今日はこの村でつつましく暮らし、明日、ボルザノヘ出る。そこはトレンツィーノ・アルト・アデジェ県の県庁所在地であり、特急列車も止まる駅だから日曜日でも両替所は開いているはずである。検討の結果、後者の案を採用することとした。

 ところで4000円で臨時予算を組むとすると、まず宿賃と夕食代で2000円、ドビヤッコからボルザノまでバスで行くとなると800円ぐらいは計上しておかねばならない(列車の本数が少ないのでバスのほうが便利)。予備費として1000円は残して置きたい。これがギリギリの予算編成である。
 したがって、泊まりは、民宿になる。もともと、民宿は好きなので苦にならない。特にヨーロッパでは、部屋は粗末でも、一応清潔でナンキンムシなどはいないから安心である。

 なお、ドビヤッコなんて聞いたことがない、とおっしゃる方がおられましたので、地図を出させていただきます。ドロミテ山塊の谷間のようなところにあります。


[No.4494] Re: 青森駅から夜行列車で北海道へ雪見に 投稿者:男爵  投稿日:2016/05/02(Mon) 05:20
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富良野です。

富良野は昔から北海道の中央にあるとPRしてきました。

富良野は根室本線と富良野線の交差点
これに対して
新得は根室本線と石勝線の交差点
となります。


さて、札幌から富良野経由で釧路に行くとしたら
 札幌−滝川−富良野−新得−釧路
となります。

あの石川啄木は空知川の短歌を詠んでいますが
滝川から富良野までの間で車窓から空知川が何度も見えるのですが
実際には,啄木は富良野から新得の間の車窓で空知川を見たようです。


[No.4493] Re: 青森駅から夜行列車で北海道へ雪見に 投稿者:男爵  投稿日:2016/05/01(Sun) 14:42
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根室本線の「やまべ駅」を通るたびに
清流の魚「やまべ」を思い出します。

やまべ → ヤマメ(山女魚、山女)
 サクラマスのうち、海に戻らず、一生を河川で過ごす魚のことをさします。

駅弁「やまべ寿司」というものがありました。

http://www.ekibento.jp/nos-shintoku1.htm

http://ekibento.jp/hok-sapporo7.htm


[No.4492] Re: ヨーロッパのあっちこっちへ 9 投稿者:唐辛子 紋次郎  投稿日:2016/05/01(Sun) 10:30
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>   不覚!「両替ができない」

マーチャンの旅行記は、運動会の障害物競走に似ている。どんな難関でも最後にはなんとかかんとかしてクリアしていくのは、読んでいて気分爽快で、とても気持ちがいい。(^^♪ただ、

Bankaはチョット困る。イタリアではKは使わないのでbancaにしてもらいたい。それからフィエスタ。これはフェスタにした方がモアベターです。iが入るとだいたい、スペイン語になる傾向があるので…。★

 イタリアへいくと、商店の店頭などに営業日と非営業日が、ウィンドウなどに張り出してあることが多い。このばやい、

 平日は giorno feriale
 休日は giorno festivo となっている筈。

 下のフェスタ☆が休日というのは、その綴りからみてだいたい類推できる。が、上のフェリアと云うのを辞書で見ると、下のと同じように、やはり、休暇、バカンスなどと出ていて、戸迷ってしまう。ところが、最期まで読むと、カトリック用語では、土曜、日曜を除いた平日とある。こういうのは、もともと宗教界の用語から出ているのだろう。

 ☆フツー若い人たちの間の会話では、フェスタといえば、お祭りではなく、家に友達などを招くいわゆる『パーティー』などを指す。

 ★イタリア語ペンソ(わたしは考えるI think)は、スペイン語ではピエンソになる。


[No.4491] ヨーロッパのあっちこっちへ 9 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/05/01(Sun) 08:34
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  不覚!「両替ができない」

 駅をでると人気のない通りにでた。早速、銀行を探す。あった・あった。BANKAなんとかという看板がでている。喜び勇んでいってみるとシャッターがしっかり締まっていて「CHIUSO」という札がぶらさがっている。30メートルぐらい先にもう一軒あった。しかしここも「キウゾ」である。私のおぼえた最初のイタリア語は、この「キウゾ」である。そしてこの先なん回となくこの単語を復習させられることになった。

 私はあせった。1円分のリラ(当時のイタリアの通貨)も持っていない。
 これではホテルに泊まるどころかコーヒー1杯飲むこともできない。仕方がないからオーストリアに引き返そうとおもって駅に行ってみる。ところが、もうその日はオーストリア方面行きの列車はないのだ。いよいよ野宿かと覚悟をきめてホームの方を見るとくだんの駐在さんと助役さんがまだしゃべっている。こっちをみて「どうしたんだ?」という表情をする。BANKA・BANKAというと「いいか、よくきけ。オッジはドメニカ(日曜)であり、ドマーニはフィエスタ(祝日)である。よってBANKAは今日・明日とも休みである。ところでアンタ、リラがないのか。それじゃあ困るだろう。よしよし、わしについてきなさい。なんとかしてあげよう」といって先にたって歩きだした。もとよりイタリア語が分かる訳はない。しかし、女一流の勘でなんとなくいわんとするところはわかるのである。

 通りの反対側に、いわゆるバルがある。バルといってもコーヒーショップ、煙草屋なども兼ねている。おまわりさんは私をつれてそこへ入っていった。レジのオッサンになにか話している。オッサンはドイツ語で「オーストリアシリングを持っているか」ときき、ここに出してごらんという。全部で4000円位あった。これを全部リラにかえてくれた。助かった。レートがどうだったんだかそんなことは考えでもみなかった.
 バルのオッサンに熱いコーヒーをたのむ。そして、ほろ苦いエスプレッソを一息に飲み干して店をあとにした。


[No.4490] ヨーロッパのあっちこっちへ 8 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/04/30(Sat) 06:43
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 ドイツ語のイタリア 駐在さんのパスポートチェック

 もう、かれこれ15分もホームのベンチに腰をおろしてポケット・イタリア語旅行会話本を懸命に音読している。
 「部屋が空いていますか」は「ウナ カーメラ ウナ ノッテ」か、なるほど。

 ここは、オーストリアのチロル州からイタリア領にはいった国境の村、ドビヤッコ。
 ユーゴースラビア旅行の翌日、フィラッハからシュピタール経由でここにたどりついたのである。
 
 ということは、このたびの旅もすでに折り返し点をまわっているということを意味している。
 はじめてのイタリア。 おいしいオカズは最後までとっておくようにイタリアだけはまだ訪れていなかった。がこの年より、北から順に少しつつ見て歩こうとしているところだった。

 一日に4、5本しか止まらない列車の一つが止まり、私を含めて5、6人がここで降りた。
 ホームにはパスポートチェックのため、自転車で村の駐在さんがやってきていた。私を除いて
お互い顔見知りらしい。まだ、ユーロはおろか、EUによる域内パスポートチェックの廃止前のお話である。まったく、のんびりした田舎の閑散とした駅であった。
 駐在さんは、私にここで待っているようにホームのベンチを指で示した。列車を降りた人たちはパスポートの表紙だけを見せて駐在さんに挨拶して去っていった。そのあと、駐在さんは駅長さんとえんえんとおしゃべりをはじめた。
 もう一人、誰か残っているのを忘れてもらっては困るのである。そこで私は一段と声を張り上げて会話の本を読む。駐在氏はこっちをみて、うるさいな、わかっているよ、というような表情をする。

 10分ぐらいして、彼はやっとおしゃべりをやめ、私に待合室にくるように合図した。そして中のベンチに腰をおろし私にも腰掛けるようにいう。彼はおもむろにパスポートも手にとると「マサーコゥ、マサーコゥ」といいながらポケットから黒い手帳をとりだしてみている。恐らく国際おたずね者リストのようなものと照合したいるのであろう。

 無理もない。この時期、日本人のテロリストの記憶がまだ薄らいでいなかった。テルアビブ空港乱射事件の岡本公三、大道寺あやなど国際手配中のテロリストが何人もいたのだ。だから日本人のパスポートは、どこでも「要確認・要注意」であったのだ。
 駐在さんは、パスポートを返しながら「マサーコゥというのは、ファミリーネイムか」というようなことを聞く「違う」というともう一度パスポートを取り上げて「どうしてそれを早くいわんのだ」というようなことをブツブツいいながらまた手帳をしらべている。
 やがて、面倒くさそうに、パスポートを返すとまた助役さんと話をはじめた。


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