画像サイズ: 607×245 (20kB) | 何人かの面談にお供をして、一番印象に残っている方は、70才前後と思われる女性の方です。大きなベットに小さくなってしまったカラダを横たえておられたその方に、牧師さんは、いつものように「私の日本の友達です。今日は一緒にあなたのお見舞いに来ました」とおっしゃいます。形式的なやりとりのあと、やっと彼女は絞りだすようなか細い声で必死に訴えるのでした。「パスター(牧師さん)」と呼びかけ、 ―――私には残された時間があまりないことはわかっています。できれば、その日までに、私の故郷、エストニアの人に会いたい、そしてエストニアの歌が聞きたい。アメリカに来て40年、まあまあ幸せな毎日でした。しかし、私は、アメリカの暮らしに疲れました。英語に疲れました。 故郷の言葉や歌を聞けば、きっと心が癒されるでしょう。ね。牧師さんお願いよ。ーーーというような意味のことを、ちょっと甘えたような声で必死に訴えておられたのです。
牧師さんは、細くなった彼女の手の上に、自分の手を置いて「あなたのために、出来るだけのことはしてみましょう。今度の日曜日の礼拝でも信者の方々に呼びかけて、エストニアの方を探してもらうようにします」といい、帰り際に2人でお祈りをしておられました。
わたしは、びっくりしました。アメリカに40年暮らしていても、いよいよのときは、若い時代を過ごした故郷がこんなに懐かしくなるのか。40年間、当たり前のように使い続けてきた英語も所詮彼女にとっては外国語でしかなかったのかーーー。
でも考えてみれば、あの方は、当時は、ソ連の衛星国であったエストニアから、多分、亡命のような形でアメリカへきていたのでしょう。そして、ああいう時代でしたから、その祖国との、行き来はもちろん、手紙のやり取りなども自由でなかったのでしょう。だからこそ、懐かしさで胸がいっぱいになっていたのでしようね。 |