[掲示板へもどる]
過去ログ [ 0007 ]

過去ログ:
ワード検索:
条件: 表示:  過去ログ一括   

[No.4617] 続・新世界を旅する 6 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/07/05(Tue) 06:33
[関連記事


画像サイズ: 607×245 (20kB)
 何人かの面談にお供をして、一番印象に残っている方は、70才前後と思われる女性の方です。大きなベットに小さくなってしまったカラダを横たえておられたその方に、牧師さんは、いつものように「私の日本の友達です。今日は一緒にあなたのお見舞いに来ました」とおっしゃいます。形式的なやりとりのあと、やっと彼女は絞りだすようなか細い声で必死に訴えるのでした。「パスター(牧師さん)」と呼びかけ、
 ―――私には残された時間があまりないことはわかっています。できれば、その日までに、私の故郷、エストニアの人に会いたい、そしてエストニアの歌が聞きたい。アメリカに来て40年、まあまあ幸せな毎日でした。しかし、私は、アメリカの暮らしに疲れました。英語に疲れました。
 故郷の言葉や歌を聞けば、きっと心が癒されるでしょう。ね。牧師さんお願いよ。ーーーというような意味のことを、ちょっと甘えたような声で必死に訴えておられたのです。

 牧師さんは、細くなった彼女の手の上に、自分の手を置いて「あなたのために、出来るだけのことはしてみましょう。今度の日曜日の礼拝でも信者の方々に呼びかけて、エストニアの方を探してもらうようにします」といい、帰り際に2人でお祈りをしておられました。

 わたしは、びっくりしました。アメリカに40年暮らしていても、いよいよのときは、若い時代を過ごした故郷がこんなに懐かしくなるのか。40年間、当たり前のように使い続けてきた英語も所詮彼女にとっては外国語でしかなかったのかーーー。

 でも考えてみれば、あの方は、当時は、ソ連の衛星国であったエストニアから、多分、亡命のような形でアメリカへきていたのでしょう。そして、ああいう時代でしたから、その祖国との、行き来はもちろん、手紙のやり取りなども自由でなかったのでしょう。だからこそ、懐かしさで胸がいっぱいになっていたのでしようね。


[No.4616] 続・新世界を旅する 5 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/07/04(Mon) 06:52
[関連記事


画像サイズ: 608×231 (33kB)
 午後は「重い病気の人が集まっている病院」へ牧師さんのポンコツ車で連れて行っていただきました。今風に言えば「ホスピス」でしょうか。
 玄関を入ると牧師さんは「受付窓口」においてあるカード箱の中を見ていました。
 カード箱には「面会希望者リスト」が入っているのです。
 「仕切り紙」の見出しには「面会を求められている人(ほとんど宗教家のようでした)」の名前が書かれていました。

 牧師さんは「ルーテル派教会のバーナード牧師さんへ」という仕切り紙のなかから、数枚のカードを出してきて見ていました。カードには「512号室のミセス・だれそれ」とか「308号室のミスター・だれそれ」というように「面会を希望する方」の名前が書かれているのです。どの方も牧師さんの信徒で、ご存じの方のようでした。
 牧師さんは、その方々の名前を書き留めてカードケースを受付のオバサンへ返していました。
 カード箱の仕切り紙は、14−15枚ありました。

 後で、牧師さんから伺ったところによりますとーーー
 同じプロテスタントでも「ルーテル派」「長老派」「メソジスト派」「聖公会」など幾つもの宗派がある。カリックも同様。ローマンカソリック、ギリシャ正教があり、さらにその中にも宗派があり、キリスト教以外にもいろいろな宗教がある。
 当時人口5万人と言われたスタンフォード市には、ヨーロッパを中心にいろいろな国から移民が集まっていました。それぞれの方が、それぞれご自分の宗教とともにアメリカへ移住してこられたのでした。多分、結婚式も、赤ちゃんが生まれた時も、そして最後のセレモニーも、この檀那寺にお願いするのでしょう。そのため、いろいろな宗派の教会があり、それぞれの教会にそれぞれの信徒がおられる。
 
 そして、いよいよ「医者に見放された時」、患者が頼るのは宗教家、それも先祖から受け継いできた自分の宗教・宗派の宗教家なのだとーーー。
 
 (写真は、華やかとは言いがたい玄関周辺の花壇)


[No.4615] Re: 1989.10中国西安の旅 投稿者:男爵  投稿日:2016/07/04(Mon) 04:28
[関連記事


画像サイズ: 475×317 (27kB)
> 1989年10月に
> 中国西安に行きました。

西安交通大学の招待所に泊まりました。
静かで落ち着きます。


[No.4614] 1989.10中国西安の旅 投稿者:男爵  投稿日:2016/07/03(Sun) 17:29
[関連記事


画像サイズ: 457×299 (19kB)
1989年10月に
中国西安に行きました。

実はその1年前に西安交通大学に招待され講演をする約束をしていたのです。

ところが、1989年6月に
あの天安門事件が起こり
はたして中国に行くべきか、そもそも行くことができるのか
と悩むことになります。

それでも方々に問い合わせた結果
約束通り
10月に西安に行くことになりました。


現在
北京のPM2・5、つまり大気汚染のことが話題となっていますが
当時の西安も上空に黒い雲が漂っていました。

どうやらこれは石炭など化石燃料を燃やしていたからのようです。

飛行機が西安上空にさしかかると
雲の下の町は何も見えません。

飛行機は黒い雲の中に突っ込み、そして着陸しました。

無事西安空港に着いたのです。


[No.4613] 続・新世界を旅する 4 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/07/03(Sun) 07:44
[関連記事


画像サイズ: 600×245 (23kB)
 翌朝、朝食後「では、今日は教団が運営している保育園と老人ホームと病院へ行く日なのでついてきなさい」と言われました。
 まずは、牧師館から通りを渡ったところにある教会へお供をして行きました。
 実は、私は3才の時から「キリスト教」の幼稚園に3年間お世話になりました。特に両親がキリスト教に関心があったわけではなく、自宅がたまたま幼稚園のすぐ前にあったからだと思うのですが。戦争中は幼稚園も閉鎖されていましたが、中学生のときは教会学校に通っていたので、洗礼を受けたわけではないのですがキリスト教的な考え方はある程度理解している方だと思います。同じプロテスタントでも、牧師さんのところは「ルーテル派」、私の通っていた教会は「長老派」に属していましたけど、大きな差はありませんから。
 まず、礼拝堂に行き、ここは聖域(sanctuary)だから、と言われましたので、私も静粛にして牧師さんのお祈りが終わるのを待っていました。
 続いて「保育園」に行きました。
 たまたま、お絵かきの時間だったのですが、3才児のクラスなのに、白い上っ張りを着て「イーゼル」の上にキャンバスなんぞ乗せちゃって、もっともらしく絵筆を動かしていました。
 一応絵らしいものを描く子、ベタベタとやたら塗りまくる子などいろいろでした。
 牧師さんが「おう、どうだ、近頃は上手くやっているか」と何人かの園児に声をかけていました。
 「おぅっ」と声を返す子、ガッツポーズをする子、牧師さんの服の裾を引っ張って甘える子、などいろいろです。
 小柄な坊やがちょっとはにかんで、小さな声で「グッド」といっていました。
 「この子は日本人なんだよ」と牧師さんが教えてくださいました。(生まれた時から外国で暮らしていてもやっぱり日本人は「はにかみ屋さん」なのでしょうか)
 
 写真は、牧師館ももう一人の住人? 名前は「ペキン」です。


[No.4612] Re: 北区王子かいわい/西ヶ原 投稿者:男爵  投稿日:2016/07/03(Sun) 06:01
[関連記事

> 本郷通りにある
> 某建設系会社は今も変わりません。

> 昔はよくバスに乗って
> 赤門からここまで来たものです。

実は都電が活躍ししていた時代には
 赤門、本郷追分、駒込駅前、西ケ原町、飛鳥山
と都電が走っていたのです。

その都電の路線をバスが引きついで走っているわけです。

都電19番 日本橋−王子駅前
 日本橋 室町三丁目 神田駅前 万世橋 神田明神前 本郷三丁目 東大正門前 本郷追分町 吉祥寺町 駒込駅前 上中里町 飛鳥山


[No.4611] 続・新世界を旅する 3 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/07/02(Sat) 06:46
[関連記事


画像サイズ: 472×314 (26kB)
 奥さんの用意してくださった夕食は、メインが、薄切りの焼き肉に茹でた大量のグリーンピースが添えられているお皿、というごく家庭的な食事でした。もちろん、牧師さんのお宅ですから、食事前には「短いお祈り」があります。

 食後、牧師さんは「さて、明日から、どこか見物したいところはありますか。あなたは、音楽が好きといっていたが、カーネギーホールとか、ブロードウエイとかに、お連れしましょうか」と聞きます。
 (この家で使われている言葉、いわゆる「アメリカ英語」ではなく、楷書の英語です)
 私の希望は「ここから、どこかへ行くのではなく、ご都合がつく限り、牧師さん、または奥さんのお供をしたい」と答えました。
 牧師さんは、まっすぐ私の目を見ながら「それは、私が貧乏牧師だから、遠慮してそう言っているのではないですか」と聞きます。

 私は「そんなことはないです。いわゆるニューヨーク見物は、2日後に勤め先のニューヨーク支店にいる先輩と友達が短時間ではあるけれど付き合ってくれることになっています。私が、牧師さんや奥さんのお供を希望するのは、牧師さんの日常のお仕事や、奥さんの家庭やご近所とのお付き合いのなかからアメリカを知りたいからなのです。いわゆる見物は別の機会にもできます。でも、この地域の方々の、普通の暮らしに接する機会は、これからも、なかなかないと思いますので」と答えました。これだけ言うのも考え考え途切れ度切れでしたが、なんとか分かってくださったようでした。
 牧師さんは「そうですか。じゃ、家内と二人で、あなたの希望に極力添える滞在を考えてみます」といってくれました。


[No.4610] 続・新世界を旅する 2 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/07/01(Fri) 07:05
[関連記事


画像サイズ: 549×311 (26kB)
 ニューヨークの「ラガーディア空港」から、牧師さんのお宅のある、コネチカット州のスタンフォード(Stamford)までは牧師さんからの手紙に書いてあった通り「コネチカットリムジン」で一時間半。街のマリオットホテルの前で降ろしてもらいました。(いわゆるマイクロバスでお客さんは三人でしたが、乗り心地は悪くありませんでした)。

 この街は、我らが住む神奈川県藤沢市と同じく、ニューヨーク市の衛星都市、ベットタウンでもあり、日本人もたくさん住んでいるそうです。
 まあ、治安も比較的よく、アメリカの東海岸のなかでは「暮らしやすい街」と言われているそうです。

 牧師さんは、ホテルの前で待っていてくれました。そして、私をダサいクルマに乗せて、教会の敷地にある牧師館へと連れて行ってくれました。
 おくさんが玄関の外で待っていました。

 さあ、ここからは、このストーリーは、カナダ旅行記から、アメリカ日記に変わります。

 この一家は、スエーデン系です。お名前はバーナードさんとおっしゃいますが、奥さんは「ベルンハルト」と呼んでおられました。
 
 あとで聞いた話ですと、奥さんは「英語もろくに話せない日本人の女性が泊まる」ということで少し緊張されたそうです。しかし、すく打ち解けることができてよかった、と言っておられたそうです。
 私には、2階の、娘さんの部屋へ案内されました。娘さんは、そのときは、ニューヨークに住んでいて日系企業で社長の秘書をしておられたので部屋は空いていたのです。
 牧師さんは「家内が、粗末なものではあるが夕食を用意しているので一緒に食べよう」と一階の食堂(リビング・キッチンのようなところ)へ案内してくださいました。
 (写真は牧師館と道路を隔てたところにあるルーテル派の教会です)


[No.4609] 続・新世界を旅する 1 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/06/30(Thu) 06:55
[関連記事


画像サイズ: 601×600 (53kB)
 さて、バッファロー空港は、アメリカ合衆国のテリトリーなのでここで合衆国「入国審査」を受けなくては乗り換えができません。(当時は「ビザ」は必要なかったのですが)
 ところがパスポートコントロールを出たところで、警察官みたいな人に、いきなりバッグからポケットまで、調べられた上で、腕を掴まれて、別室へ連れて行かれちゃったのです。
 どうやらロビーを巡回していた警察犬が、私を気に入ってしまったらしかった。
 おまけに、バッグの中から「薬包紙」に包まれた白い粉薬を見つけたようでした。
 (薬包紙というのは、正方形の折り紙大の白い紙のことをいいます。当時はこの紙に粉薬を乗せて五角形に包んだものでした。日本でも、その後まもなく「カプセル入りの薬」の時代を迎えましたが。)

 実は、出発前に風邪をひいて咳が止まらなかったので、念のため持参したクスリだったのです。
 クスリの検査が終わるまで、グシャグシャに引っ掻き回されたバッグとともに、別室で待たされること一時間。私は気が気じゃありません。ニューヨーク行きの飛行機に乗り遅れたら、当日中に牧師さんの家に着けないのです。最悪の場合は、牧師さんに、バッファロー空港へ「もらい下げ」に来て頂かなくてはならなくなります。
 しかし、係官は完全に、私を「被疑者扱い」にして相手にしてくれない。いや、困りました。

 一時間後、係官が、戻ってきて「鑑定の結果、この白い粉は『ヤク』ではなく、単なるクスリと判明した。よって無罪放免とする」みたいなことをいうわけです。そして、警察犬のアタマを撫ぜながら「コイツも風邪ひいたかな。鼻がおかしくなったらしい」みたいなことをいうのです。私は「ワンちゃんに、この風邪薬飲ませたら」といったのですが、意味が通じなかったみたいでした。
 まずは、搭乗券を見せて「とにかく出発時刻が迫っているの。なんとかしてよ」といい加減な英語で怒鳴りました。人間、興奮すると自国語でも、ちゃんと話せなくなるものです。まして、あなた、外国語でしょう。やむを得ないです。ま、とにかく、私の苦境を察したらしく、ボスらしい人が「手伝ってやれ」みたいなことをいってくれたようです。

 一人の係官は、搭乗券を見ながら電話をかけていました。別の係官は、グシャグシャになった荷物を、無理やりバックに詰め込んで、ファスナーが少し開いたまま、ぶら下げて突っ走って行きました。もう一人の係官は、私の腕をグイグイ引っ張って搭乗ゲイトへ突っ走ります。私は転びそうになりながら引っ張られ、なんとか、飛行機に乗れました。

 私は、未だに、合衆国に対する印象があまりよくないのですが、これは初対面?の印象が悪すぎたからかもしれません。


[No.4608] 新世界を旅する 21 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/06/29(Wed) 07:33
[関連記事


画像サイズ: 625×542 (68kB)
 さて、ガーデンシティーといわれているオタワのロッククリフにも「公園」があります。
 当然のことかもしれませんが、ここにも季節の花が咲き乱れていました。
 とにかく、オタワは、お散歩好きな方には向いています。

 機会があったら、ぜひ、カナダへいらっしゃってくださいね。そして、オタワへもお立ち寄りください。合衆国とは地続きですが、合衆国とはひと味違う国であることがおわかりいただけると思います。

 もっとカナダに居たかったのですが、翌日は、アメリカの牧師さんのお宅へ伺う日になってしまいました。残念ながら、カナダとはお別れです。
 その日は、トロント経由で、合衆国のバッファローへ行き、更に、ここからニューヨークの「ラガーディア空港」へと乗り換え乗り換えの続く空の旅で一日を過ごすことになりました。
 なお、バッファローは、ナイヤガラの滝への観光客で賑わうところです。


| 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 17 | 18 | 19 | 20 | 21 | 22 | 23 | 24 | 25 | 26 | 27 | 28 | 29 | 30 | 31 | 32 | 33 | 34 | 35 | 36 | 37 | 38 | 39 | 40 | 41 | 42 | 43 | 44 | 45 | 46 | 47 | 48 | 49 | 50 | 51 | 52 | 53 | 54 | 55 | 56 | 57 | 58 | 59 | 60 | 61 | 62 | 63 | 64 | 65 |