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  • [No.7833] Re: ハイネについて思う 投稿者:唐辛子紋次郎  投稿日:2017/03/30(Thu) 15:55
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    男爵さん、みなさん、こんにちは。

     ハイネというと、あっしには思い出すことがある。じつは今、拠無い事情があって、終活中であるが、蔵書の整理で、つい昨日、ハイネの訳詩集を出してしまった。

     しかし、原書のBuch der Liederだけはたとえ、ピストルで脅されても絶対にどこへも出さない。

     ところで、学生時代、英語の先生はチョット変わった方で、英語の担当なのに授業中にこのドイツ語の詩、春の来た喜びを素直に歌った『美しき五月に』を教えてくださった。大昔のことなので出だしのところしか覚えていない。あっしらの頃は、ドイツ語はすべて髯文字だった。今手元にあるのは、だいぶ時がたってから手に入れたもので、茶色の表紙の、いわゆるレクラム文庫だ。日本の岩波文庫は、これをそっくり真似た。今ではドイツでも、ひげ文字のレクラム文庫はどこへ行っても、売っていない。実は、この本については、もうひとつ、思い出がまつわりついている。

     それは、本に貼ってある小さなシールで、東京泰文堂と書いてある。これはその本を売った古書店の名前で、もうこの店主は、とっくに店をたたんで神保町にそう云う屋号を持った店はない。店主も相当昔に、他界されたはずだ。本には最後尾に、もう一枚シールが貼ってあり、それには渋谷道玄坂、近藤書店と記されている。

     つまり、泰文堂が店じまいした時、近藤書店が残りものを買い取ったものの一部なのだろう。そこで、先生の教えて下さった詩を探そうとしたが、同書は200ページ以上もあるうえ、例のひげ文字で、捜索は困難を極めた。ひとつには、この詩というのが、鉄道唱歌ではないが、何と65番まである。このフレーズは、その内の1番なのだが、その前に、長いプロローグがついている。もちろん、巻末に字引が付いているが、このプロローグの出だしを知らなければ、マッタク役に立たない。

     ちなみに、この詩集には、日本人なら誰でも知っている「ローレライ」も収録されている。字引の該当箇所を見ると、元の持ち主が出だしのIch weiss nicht,was soll es 93(ぺージ)のところに、鉛筆で、しっかり印をつけていた。ローレライは、「歌の本」の中でも、」帰郷(Die Heimkehr)という詩集の中に出て来る。

    あっしも、暇に任せて、この文庫をあれこれ探索してみたが、たしかに、詩の出だしさえきちんと覚えていれば、慣れた人には、うろ覚えの詩句を探し出すのは、それほど困難なことではないのだろうと思う。  終わり


    [No.7831] ハイネについて思う 投稿者:男爵   投稿日:2017/03/30(Thu) 05:32
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    与謝野 鉄幹の「人を恋うる歌」に歌われるハイネ
    ...バイロン ハイネの熱なきも ....
    https://www.youtube.com/watch?v=iZawJIPucBY

    https://www.youtube.com/watch?v=_MezGlXkIbk

    ハイネの詩は世界中に愛唱されている。

    ユダヤ人だったハイネは
    ハンブルクの伯父の銀行で働くが
    伯父の目から無能な青年とうつったらしく
    伯父の娘たち(従姉妹たち)からも軽蔑される。

    でも、彼女たちに恋したハイネは(姉にも、つづいて妹にも)
    つれなくされて、その結果できた失恋の詩集が
    今も世界中に愛されている。

    なんとも皮肉なことだが
    島崎藤村の「初恋」も
    実は失恋の歌なのだが、若い人が恋に憧れる歌として
    もてはやされている。

      まだあげ初めし前髪の
      林檎のもとに見えしとき
      前にさしたる花櫛の
      花ある君と思ひけり

    このことは藤村自身も、あきれている。

    思うに、恋が実って、楽しいときにつくった詩よりも
    失恋の悲しみでつくった詩のほうが、感動的になるものだろうか。

    ハイネはキリスト教に改宗する。
     ユダヤ教徒では弁護士になれないから。
    しかし、ユダヤ人からは背教者と見られ
    キリスト教徒からは、依然としてユダヤ教徒と見られた。


    啄木もハイネに憧れたようだが、あまりハイネの影響は見られないようだ。

    ただ、ものの本によると
    ハイネは「....文学は私にとっていつも神聖なおもちゃ
    であった...私は詩人の名声に大きな価値を
    置かなかった。...」といったとか。

    ハイネは人間解放戦争で戦う自分をイメージしていたようです。

    啄木が「歌は私の玩具である」と言って
    「悲しき玩具」を残したわけですが
    これは偶然ハイネとの一致だったのでしょう。


    [No.7830] Re: 珠玉の作品集 投稿者:GRUE  投稿日:2017/03/24(Fri) 13:43
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    KANCHAN、こんにちは、

    素晴らしいお友達をお持ちなんですね。感心しました。


    [No.7829] 珠玉の作品集 投稿者:KANCHAN  投稿日:2017/03/24(Fri) 13:37
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    画像サイズ: 241×988 (93kB)
    珠玉の作品集

     相原さんから「我が人生に ありがとう」という400ページを超える立派な本が送られてきた。これは相原さんが、ここ数年の間に、こつこつと書き溜めてこられた随筆を一冊の本に纏めたものである。(丸善仙台405頁)

     相原さんは1935年生まれで、東北電力で働いてこられた方で、定年後人生や社会に対する思いを、主として私たち仲間でやっている「ぺんぷらざ」に発表してきた。

     仙台郊外の旧家の当主で、保守的なしっかりしたお考えをお持ちである。

     また、特筆すべきは、あの東日本大震災の折、自動車で脱出を図るも、押し寄せた津波に捉えられ自動車ごと流されたのであるが、自動車が中空の木の枝に引っかかって、奇跡的に助かったという経験もお持ちである。

     実は昨年の夏には、同じ「ぺんぷらざ」仲間の大倉さんが「昭和ヒトケタの人生回顧」という小冊子を自費出版されている。(コシーナ新書154頁)

     大倉さんは1934年生まれで、三菱電機に勤務の後定年された方である。10年ほど前に奥様をなくされたが、悲しみを乗り越えるために、次の人生を模索して中国に留学された。今は新しい奥様と老人マンションに入られているが、この度はピースボートの世界一周旅行に出かけられた。船中では得意のピアノを演奏され、カラオケ教室を開いたという。

     もう一人、私とペンプラザの幹事をやっている小川さんは、80歳を機に作品集「和気満堂」を出版された。(高頭書房197頁)

     小川さんは富士銀行の支店長を務められたのち、電器関係の会社の監査役をされていたが、「ぺんぷらざ」の発行人であるもとNHKの諏訪さんの意気に感じて、冊子の編集にくわわったのである。

     実は「ぺんぷらざ」誌の同人からはすでに何人もの方が、自分を語る冊子を自費出版してきている。これらの冊子は、それぞれ我が子のように愛しいものと思う。
    かくして「時は流れゆく」との感慨が沸きます。

    (2017.3.18)


    [No.7828] 伊勢物語&今昔物語 投稿者:男爵  投稿日:2017/03/23(Thu) 07:36
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    前に俵万智の伊勢物語を読んだが
    この本は児童向き 絵が多くて、解説が丁寧。

    石崎洋司:伊勢物語

     在原業平  38歳
      祖父は天皇、父が親王(平城天皇の息子)、母は内親王(桓武天皇の娘)

     藤原高子(たかいこ)  18歳
      藤原良房は父の弟 清和天皇の后になると決まっている。 子は陽成天皇
      同母兄である摂政藤原基経とは仲が悪かった。

     清和天皇  9歳

    主人公の業平は高子をおぶって駆け落ちするが
    途中に鬼が現れ高子は連れ去られてしまう。
    (高子の兄たちが取り返した 業平にしたら鬼のしわざ)

    しかし、こんなに年の差があったなんて。

       −−−−−

    令丈ヒロ子:今昔物語

    浮気男の失敗
     「私の女房はみにくい顔で品は悪い」きれいな女に言い寄ったが 殴られる男
       (実は殴った女は妻だった  マンガですね)

    芋がゆをふるまった将軍 敦賀までの道は遠い 狐が将軍屋敷に伝言する。
     (食べ放題といっても、あまりにも多すぎると食欲がなくなる)

    羅城門の老婆
      (芥川龍之介の創作を思い出す)

    悪人の改心  僧侶から悪人でも救われると聞いて、西へどんどん進み、7日歩き続けた。
      阿弥陀仏の声を聞いて感動し倒れた源太夫
       (親鸞の講和を無学のものにもやさしく説いたのだろう)

          〜   〜

    小沢昭一の日本の放浪芸は、放送大学にもあった。
     長野往生寺の絵解き  のぞきからくり(佐倉の博物館にあった)
      越後の瞽女(ごぜ)はもういない?
     演歌師 角兵衛獅子 飴売り唄  金多豆蔵人形芝居(五所川原)
     香具師(寅さんの名調子)  節談説教(仏教界でも見直される)
      漫才は各地で活躍

    明治村村長だった小沢昭一は、遊廓の再現を熱望したが実現せず。

        ☆   ☆

    五木寛之:下山の思想
     山は登るときより降りるときが危険。マッターホルン最初の登頂者も下山で事故
     いま日本は右下がり 下山の気持ちで行こう。
      秋から冬へ、冬から春へ 季節の変わり目に風邪をひく。体調管理の大切さに気がついたのでした。
      

    子供の本も時には勉強になります。
    今日も図書館へ行きましょう。


    [No.7827] 推理小説と海外旅行 投稿者:男爵  投稿日:2017/03/19(Sun) 10:41
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    海外旅行に行ったことのある土地を舞台にした
    推理小説を読むのは楽しい。

    行ったことのない場所だとイメージも沸かない。

    さて、山村美紗のシンガポールを舞台にした推理小説を読んだ。
    この小説の書かれた頃から十数年後に現地に行ったのだが
    やはり現地を知っていると小説の面白さも増す。

    同じ著者の香港、マカオを舞台にした推理小説も読んだが
    こちらも実際に、香港やマカオに行ったので
    旅行を思い出しながら読むと楽しさが倍増する。

    著者は現地に行ったから、中国語で書かれたメニューもメモしてきたのだろう。
      サンドイッチ:三文治  バタートースト:牛油多士

    香港のビクトリア・ピークの乗り物のことも出ていた。

    マカオでは、聖ポール天主堂跡がやはり出てくる。
    17世紀のはじめに、日本のキリシタンが協力して建設したという天主堂
    しかし1835年に火事で消失し、今は正面の壁面しか残っていない。

    ということで
    いつか香港やマカオの旅行記を書いてみましょう。


    日本国内を舞台にした推理小説も
    したがって自分で旅行したところが舞台、あるいはこれから旅行に行くところが舞台で事前知識の収集として読むことがある。

    推理小説がきっかけで、その地を旅行することもある。

    小説に書かれた時期と今は状況が違って
    夜行列車もなくなったり、廃線になった鉄道もある。
    駅弁ももはや売られなくなったり、反対に新幹線ができて、ローカル線が寸断された場所もある。

    というわけで時代を感じたり、一種の地理歴史の勉強にもなるのです。


    [No.7826] 1905年 彼らは 投稿者:男爵   投稿日:2017/03/16(Thu) 20:04
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    1905年 つまり明治38年
    そのとき彼らはどうだったか。
    という本を読みました。

    その中から数名紹介して,私の独断と偏見のコメントを書きましょう。


    ◎高村光太郎 当時22歳
    1902年に東京美術学校を卒業して研究科に残った。
    「明星」同人として啄木の先輩に当たる高村光太郎を、1905年に啄木は訪問したらしい。
    日本国家の運命を決定づける日露戦争の動向にも気にせず、ひたすら彫刻に,自分の芸術的人生について考えている光太郎
    「高村君は東京の坊ちゃんだなあ」と啄木は書いている。

    光太郎は父の勧めで1906年にアメリカに渡り、翌年ロンドンに行き、1908年にパリに着く。
    「私はパリで大人になった。はじめて異性にふれたのもパリ。はじめて魂の開放を得たのもパリ。....」
    「僕には又白色人種が解き尽くされない謎である。...相抱き相擁しながらも僕は石を抱き死骸を擁していると思わずにはいられない。....早く帰って心と心をしゃりしゃりと摺り合わせたい」
     (ドイツ中世研究家の阿部謹也先生も、フランス人の中で孤独を感じた日本人光太郎の悲しみを指摘しています )

    フランスでは孤独だった光太郎は、パリ生活を1年未満で終えて帰国する。

    そして光太郎は智恵子と会う。若き芸術家同士の結婚の幸せは長く続かなかった。

    智恵子は実家の没落で精神病院に入院するのだが
    そこで千数百点の紙絵を残す。

    智恵子は、姪が看護婦でその世話を受けていたが、出された食事を見ると創作意欲がわき、それを紙絵の作品にした。
    姪は早く食べて欲しいと思っていらいら待っていたらしい。

    智恵子はできた作品を訪れた光太郎に恥ずかしそうに嬉しそうに見せて、よくできたねと賞められると喜んだ。

    光太郎と智恵子は、結婚していなかったら、それぞれ小さな一生で終わっただろう。
    二人は結婚して、「智恵子抄」や十和田湖の像によって永遠に残ったのだ。
    その意味で,幸せだった。


    ○島崎藤村 当時33歳
     この年、藤村は信州小諸から妻と幼い三人の娘をともなって上京した。
    自費出版「破戒」を出すため。
    貧乏な生活で妻と子供たちを亡くす。栄養失調らしい。
    だが、「破戒」は評判となり、夏目漱石も絶賛した。
      家族が犠牲になったが、藤村は作家としての道を歩む。若いときからいろいろ女性問題を起こした藤村は、本来の性質がそうだから、しかたがないのか。女好き藤村、女なしでは生きていかれなかった。


    ☆野上弥生子 当時20歳
     明治女学校高等科3年生の彼女は翌年の卒業を控え、行末について考え込んだ。
    郷里に帰れば親のすすめる結婚をしなければならない。東京で勉学を続けたい、また文業に対する志も抱いていた。
    彼女は同級生の兄の野上豊一郎と学生結婚した。そして豊一郎を介して漱石の指導を受け作家の道を歩む。
    三人の息子を育て、99歳あと少しで100歳というとき亡くなる。
      死ぬまで書き続けた。
       あっぱれ。  ぱちぱちぱち(拍手)


    ●平塚らいてう(明子) 当時19歳
     1905年 彼女は日本女子大最終学年の3年生
    1906年に女子大を卒業して、成美女子英語学校での閨秀文学会において講師の森田草平にひかれる。
    恋は実らず、明子と草平は自殺未遂をする。

    草平の師漱石は「女もそう真面目だとは思われないね。やっぱり遊んでいたんだよ。僕から見れば、言うことなすこと、みな思わせぶりだ。それが女だよ。女性の中でも最も女性的なものだね」

    漱石は平塚明子を「アンコンシャス・ヒポクリット」と評した。明子の場合、自我が人格よりも強烈で、それが草平を引きまわす結果につながったのだが、しかも本人はそのことに気づいていない、ゆえに「無意識の偽善者」と漱石は見た。

    恋に恋する女性 結果的に森田草平を苦しませた平塚明子は「三四郎」のモデルとなって文学史に残った。「三四郎」は魅力のない小説だった。私には。


    ●石川啄木 当時19歳
     なんとか親切な郷里の人の温情で、自費出版「あこがれ」を出すが,ほとんど売れず、その恩人にも礼を尽くさない。

    1905年5月の自分の結婚式にも、どうしたわけか出席しなかった。
    あてのない東京での生活で金はなくなり、結婚式のため帰らねばないが
    途中の仙台で下車して、土井晩翠をだまして借金をする。
      悪い奴石川啄木  だまされた土井晩翠は人格者

    なぜ啄木が結婚式に出席しなかったかというと、啄木が8歳くらいの時に死に別れた恋人がいて、(啄木が結婚したら)その女の子の祟りをおそれたのではないかという説を書いている本がある。

    http://www.nhk-book.co.jp/ns/detail/201205_1.html


    以上まとめると
    人間は他人によくしよう、悪く思われたいないと考えながら、生活するのだが
    切羽詰ってぎりぎりの状態になると我が身が可愛いくて、他人のことなど考える余裕がなくなるらしい。
    その結果、自分勝手なことをして人生をおくることになる。

    「青春裁判」の漫画家永島慎二の言葉を思い出しながら、この文章を終わります。


    [No.7825] 赤毛のアン 投稿者:男爵   投稿日:2017/03/13(Mon) 17:00
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    高校生の時
    同級生(男子学生)から、赤毛のアンを勧められたことがあります。

    大学生の時に読みました。
    それ以後、アンのシリーズや作者のモンゴメリの本も読みました。

    最近また一冊読みました。

    桂宥子:『L.M.モンゴメリ』 KTC中央出版 現代英米児童文学評伝叢書 2003


    この著者は、モンゴメリーの日記の翻訳をした。
    しかし、とりたてて新しいことは書いていなかった。

    「アンの夢の家」
     記憶喪失の男ディックのこと
    夫ギルバートが回復する可能性にかけて、ディックに新しい手術をしたところ、彼は実はディックと”うりふたつの”いとこジョージ・ムアであった。(ディックの妻レスリーと下宿人の小説家オーエン・フォードは結婚できた)

      しかし、私の記憶ではギルバートが直接手術をしたのではなく、町の大病院を紹介したのだと思うけれど...。
    大手術はギルバートの手に負えず、設備の整った大病院でしたはず。

    あるいは、この著者の書いているように、村岡花子訳の不完全さを後の翻訳者が直した本に書いているかもしれないが。

    というわけで図書館で
    村岡訳と掛川恭子訳も見ました。

    やっぱり私の記憶通り、ギルバートはディックの首のできものの治療をしたとき、頭の傷を調べて、ディックをモントリオールのよい病院に連れて行って手術をしたら、記憶と知能が戻るかもしれないと言い出す。

    アンは反対する。(夫として生活破壊者みたいなディックは正気になったら、また妻レスリーを困らせるようになるのは目に見えている。このままでいい。
    ギルバートはレスリーが下宿人オーエンを好きなことは知らないみたい。アンは教えるかどうか迷ううちに事態は進む)

    船に乗ってから行方不明になっていたディックを見つけて連れてきたジム船長に、ギルバートは相談した結果、手術を受け入れるかどうかはレスリーの決定に従うことにした。
    熟慮したレスリーは手術を受け入れることにし、費用はジム船長から借りることになった。

    そしてレスリーはディックをモントリオールの病院に連れて行く。10日後手術は成功したという手紙がアンに届く。なんと5月末に、ディックと思われた記憶喪失の男は、彼のいとこだったことがわかる。
     (ディックは11年前に既に死んでいた。それを知らせに来る途中に事故に遭い記憶喪失となる)

      この意外な展開には、驚くやら呆れる私。 アガサ・クリスティや山村美紗の推理小説に感じた作者の勝手な筋の展開と思ったりしたものでした。

    ちびまる子の話にも、意外な展開、メデタシメデタシという作者の勝手な筋の展開の話がありました。  まいいか。


    アンの世界であるプリンスエドワード島に橋を架ける計画が立てられ
    この連絡橋は完成しましたが、設計から完成後の管理までの講演を
    カナダのカルガリー大学のガリ教授から聞いたことがあります。


      お ま け
    北海道にカナディアンワールドというテーマパークが開園され
    プリンス・エドワード島にある「赤毛のアンの家・グリーンゲイブルズ」も再現されたのですが、残念ながらその後、閉園してしまいました。

    カナディアンワールド公園
    http://www.city.ashibetsu.hokkaido.jp/syokokanko/kankou/kankou/canadian_world_park.html

    カナダの「赤毛のアンの家」が火事で焼けてしまった時
    北海道から図面を取り寄せ、復元できたということです。


    [No.7824] Re: バレンタイン・デー 投稿者:夏子  投稿日:2017/03/13(Mon) 13:52
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    > 日本人は
    > クリスマスを祝い
    > 大みそかには除夜の鐘を聞いて、元日には初詣をする。
    >  キリスト教、仏教、神道 無節操にあらゆる宗教を受け入れる。
    >
    > これは日本人の問題点とものの本に書かれているが
    > しかし、五木寛之のいうように
    > これしか認めないという一神教では、世界は戦争になってしまう。
    > むしろ日本のようにあらゆる宗教を受け入れるという姿勢の方が、これからの国際平和には必要なのではないだろうか。
    >
    > そう思いませんか。

    思います思います。まったく同感ですヽ(^o^)丿

    世界はもっと柔軟になればよいのに・・・・ま、無理でしょうね。長年しみついた伝統や
    道徳は、変わるにも長い年月がかかるだろうし、それどころか、ますます強固に伝統を
    守るようになったりしてね。
    夏子


    [No.7823] Re: バレンタイン・デー 投稿者:男爵   投稿日:2017/03/13(Mon) 04:52
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    フランス人と結婚した著者は
    フランス人の夫と一緒にサウジアラビアに行き
    自分の目で色んな所で情報収集したり体験するが
    サウジアラビア在住のフランス人との情報交換などもあり
    どちらかというと
    フランス人の目で見た体験記という印象でした。

    さてタイミングよくこんなニュースが入ってきました。

     サウジアラビアのサルマン国王が12日、公式訪問のため羽田空港に到着した。
     サウジ国王の来日は46年ぶり。
     世界最大級の産出量を誇る石油への依存からの脱却に向け、日本からの投資拡大など協力を呼び掛けるのが狙い。
     皇太子さまが羽田空港で出迎えられた。15日まで滞在する。

    http://mainichi.jp/articles/20170313/k00/00m/040/027000c

    石油のほしい日本、日本の技術力に期待するサウジアラビア

    日本にとってはメリットの多い外交でしょうか。

    サウジアラビアもアメリカ一辺倒ではなく、フランスや日本との良い関係をつくりたいのでしょう。


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