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 文集   2015.1.1更新

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  • [No.7731] 赤城山 投稿者:KANCHAN  投稿日:2016/09/25(Sun) 10:36
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    画像サイズ: 640×480 (88kB)
    赤城山 月の影澄み 渡良瀬の ささやくところ・・・


     この句は、私の郷里群馬県桐生市の市歌の出だしである。つまり桐生のお国自慢は赤城山と渡良瀬川で始まる。

     掲題の画像は渡良瀬川の橋の上から、赤城山を望んだものである。私のコンピューターのスクリーンセーバーに使っているが、冬の景色で、赤城山は雪をかぶり、渡良瀬川の水量は多くない。私は毎日コンピューターを開けるたびにこの画像に出会うのである。

     渡良瀬川については、私は以前小随筆を書いたことがある。この川は、日光・足尾山系に水源を発し、赤城山の東の裾を下って、桐生市を抜け、やがて茨城県古河市付近で利根川に合流する。かつて、古河財閥による足尾銅山の開発で、鉱毒が下流に流れ、日本初めての公害問題を起こした川であるが、私たち桐生の人間にとっては、アイデンティティーの核になる大事な川である。私はこの川で泳ぎを覚えた。

     しかし、本稿は赤城山のことを書く。私は少年時代から、高校時代を通じて、この山を意識しながら育ったのである。


     赤城山(地元の者は、アカギヤマ、または単にアカギと呼ぶ)は標高1800メートルほどの休火山である。すそ野は富士山について長く雄大な山であるが、山頂部分は、幾つかのこぶのような峰に分かれている。その山々に囲まれて、大沼と小沼という二つの湖がある。

     赤城山は、榛名山、妙義山とともに、上毛三山といわれるが、その中でも一番高く、かつ群馬県の中央に位置している。

     かつて大日本帝国の航空母艦にこの山の名前が付けられた。空母赤城は真珠湾攻撃の折、機動部隊の旗艦として活躍したが、ミッドウエー海戦では、敵機の集中攻撃で甚大な損害を受け、ついには僚艦によって爆沈されるという悲劇の艦となった。


     私が小学・中学生のころは、この山に登ろうと思ったことはなかった。遠くて高い山であり、簡単に行くすべがなかったからである。

     友人たちの中に、父親がボーイスカウトのリーダーをやっている者がいた。彼は父親の指導の下に、小さいころから何度か登っていたが、それは例外のケースであった。

     当時桐生から足尾に向けて足尾線という支線が走っていた。もともとは足尾銅山の銅を運び出す目的で作られたものであり、渡良瀬川沿いに赤城山の麓を上って行く。足尾線は今では渡良瀬渓谷鉄道という名前になり、一日に数本だけ走っているが、紅葉の時期には結構人気があるという。

     途中に水沼という駅がある。当時赤城山登山者はそこから深夜に出発し、歩いて数時間かけて登るのであった。


     私がこのルートで初めて赤城山に登ったのは、高校を卒業し、一年浪人して大学に入学できた年の夏休みであった。結構装束を固めて中学時代の友人たちと登った。夜明け前に頂上に着いて、日の出を見た。感激であった。私はそれまで登山などしたことがなかったので、なにやらいっぱしの山男になった気がしたものである。


     このルートでは、頂上近くでまず小沼の脇に出る。この沼はあまり大きくなくて、むしろ池といったほうがいいようなたたずまいである。大沼はまだ先になるが、こちらは立派な大きな湖である。この湖についてこんな話がある。

     私たちの中学の教科書に、志賀直哉の一文が載っていた。数人で赤城山の頂上に遊んだ話であるが、そこで「赤城の沼に草履を投げると霧が出るという言い伝えがある」という会話が出てくるのである。さすがに1800メートルの山である。霧が出ることは珍しいことではないのである。

     大沼まで来ると、桐生とは反対側になる前橋からの登山ルートがある。こちらは一の鳥居、二の鳥居と続いて山頂まで道路が整備されて、バスが登ってくるのであった。これはある意味、赤城山は、東側の桐生方面の人間にとっては近づきがたい山であるが、西南側の前橋方面の人間にとっては、行楽の山と見られていたのかもしれない。


     子供の頃、桐生の冬は寒かった。空っ風が吹くのである。11月20日前後にえびす講がある。市の中心を貫く通りに、町会毎に山車が出て、両側に夜店がずらりと並ぶ。この日まで、子供は足袋を穿くことが許されなかった。それが待ち遠しかったのを覚えている。手にはしもやけやあかぎれができた。

     実をいうと、このお祭りのある旧市街からは赤城山は見えない。桐生の地形は、西から北を回って東まで、小高い山々があって、それが、赤城山を遮っているのである。しかし、われわれ桐生っこは、空っ風・赤城おろしと、時に舞う風花(かざはな)で、いやでも赤城山の存在を意識するのであった。中心街をやや南に下ると、掲題の美しい風景が展開するのである。


     私は40代半ばになって、勤め先F銀行の桐生支店長をやることになった。高校を出てから東京の大学に進み、卒業後F銀行に就職した。人並みにサラリーマンで格闘したが、初めての支店長が郷里の支店であったのである。

     父も母もまだ健在であったから、二人はきっとうれしかったであろう。私も思わず親孝行ができたと思っている。桐生に赴任すると、中学や高校の友人たちがめずらしがり、歓迎してくれた。

     私はほぼ毎日、市内を取引先訪問に出かけた。営業範囲は結構広かったから、市内からはもちろん、郊外からも、赤城山をいろいろな角度から眺められた。

     天候によっても山の表情は変わった。晴れ上がった日の赤城山は美しかった。しかし冬の日、雪が舞うと厳しい表情を見せる。頂上のほうが吹雪いているのが見えた。そんな時は、早く帰って支店に逃げ込みたくなったものである。

     桐生支店時代を通じて、赤城山は欠かせない存在であった。山の中腹に幾つかゴルフ場が開発されていたのである。あんなに近づきがたかった山も、モータリゼーションで、容易に登れる山になっていた。私は友人たちや行員たち、そして取引先の人たちと、ゴルフを楽しんだ。車で、自宅から小一時間でゴルフ場に行けた。そして最もよく行ったのは桐生カントリークラブであった。

     桐生カントリーは背後に山頂の峰々を控え、眼下には関東平野の眺望が開けている美しいゴルフクラブである。ただし、夏、ときどき雷雨が襲った。「雷とから風、義理人情」は上州の専売特許である。そういえば、赤城の子守歌で有名な国定忠治は、このあたりの出であった。


     私の桐生支店勤務は四年ほどで終わったが、東京に帰ってからのち、一九九九年に、高校の同期の友人たちと桐生カントリーでやったゴルフ会で、私はホールインワンをやったのである。まさに忘れられない山になった。

     今、私は千葉県の我孫子市に住んでいる。家から北に二十分ほど歩くと、利根川の土手に出る。

     利根川は上流にさかのぼると渡良瀬川にぶつかる。そしてその上流に桐生市が位置する。

     冬の空気が澄んだ日の朝、利根川の土手に立つと、右手に雪をかぶった日光の山々が見えるが、目をまっすぐ上流方面にこらすと、かすかに見覚えの赤城山も見えるのである。初めてそれを確認した日は感激した。

     私は赤城山の空っ風の中で育ち、渡良瀬川で泳ぎを覚え、サラリーマンの一時期を赤城山に見守られて過ごした。そして、我孫子に住んで、お釈迦様の手のひらの上のように、赤城山の見えるところに、終の住まいを構えることができたのである。

     その山川を友として、あずま男の名に恥じぬ、功を挙げん心もて 学びの道にいそしまん。
     
     これは母校桐生高校の校歌の一節である。我が人生を顧みて、さまざまな感慨が胸をよぎる。


    [No.7730] いい夜が過ごせて 投稿者:あや  投稿日:2016/09/24(Sat) 17:53
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    連合の盆踊り、敬老の日の集い、二丁目の祭りが終った。それぞれに担当があり大変
    だった。やっと一息つけたところで、広報の発行となった。それも昨日印刷所から届
    いたことで、ほっとしたところである。

    今夜は役員会があり、大運動会、文化祭のことが話しあわれる。その文化祭では、副
    実行委員長になっていて、お茶会部門も担当しなければならない。今日も夕方までそ
    れらのチェックをやったが、お茶のお点前をしてくれる方がいないことで、あたふた
    しそうだ。

    役員会へ行く前にちょっと休憩と「文章」を打つことにしたのだ。
    それは昨日の趣味の会のことだ。なぜか昨日は一番乗りで皆を向かえた。参加者は7
    名と少なかったが、皆が私が一番に来たことを驚きながら喜んでくれた。

    終わったあとは先月同様、男性3人と私で、近くの飲み屋に行った。何種のつまみを
    頼んだか。3人のうち1人は、体の具合が悪くノンアルコールのビール、もう1人は
    やはり酒は禁止されている病気持ちでウーロン茶、呑むのは私ともう1人の男性。
    瓶ビールの方が安いからと、瓶を4本も呑んだか。話しも弾んで楽しく、愉快だった。
    時間もだいぶ過ぎたと思いながら、携帯を見たら、19時を回っていた。2時間も経っ
    ていたのだ。私もこれ以上呑めないし、終りとすることになった。

    会計を頼むと8070円と言われた。いざ支払となったとき、ノンアルコールを飲ん
    だ男性が、
    「遅れたお詫びにこれだけ出します」と、5000円をくださった。会が始まっても
    来なかったことで、電話したら「うっかりしていた。今から行きます」だったのだ。
    そこへ私が、
    「先月も1000円多く下さっているのよ」と1000円を出した。
    呑みすけの男性が、それを受け取り、
    「それではこの1000円を返して、4000円もらおう」と言った。私は、
    「遅れたのは会のことで、ここでこのようにすることは・・・」と言ったが、それで
    終った。

    なぜこんな「文章」を書いたかと言うと、昨夜は8070円で、ノンアルコールの男
    性が4000円出してくださって、先月の1000円が残っていることで、私たち3
    人は1000円づつで済んだ。

    その先月は、会計が4180円だった。こっちの店は時間が早かったせいで開店して
    いなかったので、少し離れたところの店に行ったのだ。そこでも、かなり呑んで、つ
    まみも多く取ったが、なぜか安かった。
    このときは、ノンアルコールの男性が、2000円払ってくれたことで、その100
    0円を私が預っていたのだ。4000円台も8000円台の会計でも1000円で済
    んだことが、面白く感じたので、こんなことを書くことにしたのだ。それも4000
    円、8000円と2倍がおもしろかった。

    お茶、ノンアルコールしか飲まない、食べるものも限定されている男性に割り勘は申
    しわけないと思ったがお金のある人たちなのだから、いいかとも暢気に考えてもいる。
    「来月も参加して、待っているよ」の3人と別れて家路に着いた。
     
                               2016−09−23


    [No.7729] Re: アルテ・ピナコテーク(ミュンヘン)を訪ねて 投稿者:唐辛子紋次郎  投稿日:2016/09/20(Tue) 22:36
    [関連記事URL:http://http:/


    画像サイズ: 520×389 (81kB)
    館へ着くのが早すぎたので、周囲を見回すとこんな彫刻が目に入った。最初アルテの方に所属するものと思ってググったら、前のノイエの方に所属していることが分かった。道理でいくら検索しても出てこないわけだ。

      
     これはノイエ・ピナコテークの所蔵するブロンズ像で、作者はイギリスの著名な彫刻家ヘンリー・ムアです。

     親父は一介の炭鉱夫だったが、息子は大成功を納め大金持ちになった。作品については日本では、大阪の御堂筋や熱海のMOA美術館などでも見ることが出来ます。

     明治31年の生まれだが、チェルノブイリ事故のあった昭和61年まで生きていたようです。

     この作品は、日本版のウィッキーには出ていないが、ドイツ語版には写真が載っていました。ムアは最初期には、マヤの文化に魅了され、そこから出発したらしい。


      


    [No.7728] Re: 『レオナール・フジタ』☆の内覧会へ行く 投稿者:唐辛子紋次郎  投稿日:2016/09/19(Mon) 22:53
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    > 貴重な情報、有難うございました。

    > 昔、フジタの著書「巴里の横顔」と言う本をヤフーに出したら
    > 2万で売れたので売ってしまい、あとで悔やみましたが、時すでに
    > 遅し、でした。買ったのは六本木の大きなバーのママさんで
    > しばらく通いました。その2万くらいは使ったと思います。


    フジタは長らく「不遇の画家」と呼ばれていましたが、今頃になってやっと再評価され出したようです。これからは日本各地で、展覧会や講演、関係図書の発売などが相次ぐそうです。


    [No.7727] Re: 『レオナール・フジタ』☆の内覧会へ行く 投稿者:ザックス  投稿日:2016/09/19(Mon) 15:01
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    紋次郎さん

    貴重な情報、有難うございました。

    昔、フジタの著書「巴里の横顔」と言う本をヤフーに出したら
    2万で売れたので売ってしまい、あとで悔やみましたが、時すでに
    遅し、でした。買ったのは六本木の大きなバーのママさんで
    しばらく通いました。その2万くらいは使ったと思います。


    [No.7726] Re: アルテ・ピナコテーク(ミュンヘン)を訪ねて 投稿者:唐辛子紋次郎  投稿日:2016/09/17(Sat) 12:26
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    画像サイズ: 382×510 (57kB)
    これは、ピナコテークの停留所です。ただ、ピナコテークとなっているのは、アルテヘ
    も、ノイエにも、モデルネにも、ここからがご便利ですと云うところか。


    [No.7725] 『レオナール・フジタ』☆の内覧会へ行く 投稿者:唐辛子紋次郎  投稿日:2016/09/17(Sat) 10:20
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    画像サイズ: 418×580 (87kB)
     確かに案内状には、事後にレセプションパーティがあるとは書いてあった。しかしそれは特別な人に限ると思っていた。ところが、展示品を観終わって館を出てゆく人について歩くうち、前方で係の女の人が、しきりに手招きをしていたのでそのまま歩いていくと、自然と会場へ入っていた。

     ここは前に何回か利用したことがあるが、チョット高級感のあるレストランで、すでに大勢の人が卓上のものを自分の皿に移していた。料理のかずも種類も多く、美味しいスープも用意してあった。向かいの机では、紅白のワインが用意され、またコーヒーのサービスもあった。ところで

     内覧会は、まず開会式というのが、入り口のホール、マイヨールの婦人像の前で行われた。館長挨拶、学芸員のスピーチ、来賓の紹介などがあり、来賓の内には、フジタの終の棲家となったフランス、エソンヌ県(イル・ド・フランス)からも、ふたりが参列していた。さて

     内覧会の感想だが、絵画は当館の所蔵もあるが、フランス、スイス、などを始め、国内でも京都、新潟、埼玉、下関、秋田など各所から集めてあるので、数も多く非常に見ごたえがあった。また、それもいわゆる「乳白色」のものだけでなく、これがフジタかと思わず首をひねるようなものまで、展示してあって驚かされた。今まで画集などで見たことのないものも多く、裸婦などより子どもだとか、肖像画などにもいいものがあった。

     フジタはケッコウ自画像への思い入れが強く、例のロイド眼鏡におかっぱ頭が、何度も出て来てきて、思わず頬がゆるんだ。

     あっしが一番気に入ったのは「カルチェラタンのビストロ」だったように思う。描写が非常に緻密だったような。また「礼拝」という作品には、修道僧姿のフジタだけでなく、夫人の君代さんも、そのすぐ脇に描きこんであり、夫人に対するこまやかな愛情が偲ばれて、じつに微笑ましかった。この展覧会は、じつは絵画だけでなく、フジタの撮った写真だの、挿絵、さらにフジタの旅先での珍しい収集品がいろいろ陳列してあって、フジタの先入観が大きく訂正された。在欧中交友のあったピカソなどの影響か、ペルーやメキシコのものが数多くあった。

     また広い交友関係をあらわすものに、ジャン・コクトーからの書簡があったり、キク・山田の著書の挿絵なども手掛けていることを知った。


     当館のお勧めのひとつ、フジタの壁画(ライオンのいる構図、犬のいる構図)というのも、たしかに珍しい。戦争画ではあると思うが、そうでないので群像というのは、あっしにとっては初見であった。

     あと気が付いたことをいえば、フジタのサインだが、かれのばあい、大抵アルファベットで、Foujitaと書き、わきに、嗣治と漢字を入れるのが、漢字のないのを見つけた。入れ忘れたのか、それとも、入れない時代があったのか。

     10年前、東京は竹橋の、東京国立近代美術館で、フジタの大展覧会があったが、どうしても行かれなくて大変残念な思いをしたが、ことしは見られてほんとうにハッピーだった。聞けば今年はかれの生誕130年で、フジタ絡みのイヴェントがこれからも続々あるそうだ。

     ちなみに、10月1日から東京は府中の、府中市美術館で「藤田嗣治展ー東と西を結ぶ絵画」が開催される。これもぜひ、観たいものだ。

     ☆上記展覧会の会場は、DIC川村記念美術館、展覧会の正式名称は「レオナール・フジタとモデルたち」です。会期は(2016年)9月17日〜(17年)1月15日。


    [No.7724] Re: アルテ・ピナコテーク(ミュンヘン)を訪ねて 投稿者:唐辛子紋次郎  投稿日:2016/09/12(Mon) 11:47
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    画像サイズ: 520×390 (80kB)
    何年も何年も改装工事の続くアルテ・ピナコテーク。


    [No.7723] Re: 異人の体験旅行をしてみて 投稿者:男爵  投稿日:2016/09/10(Sat) 20:34
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    唐辛子紋次郎さん   こんばんは。

    私も大変遅く届いた絵はがきがあります。

    帰国してから三ヶ月もたって届いた。
    受け取った義父が驚いて知らせてくれたのです。
      ポストに投稿するのを頼んだ人が、おそらく出すのを忘れ、あわてて出した。


    もう一つ
    もっとすごいのは
    いまから二十年前にパリで頼んだのに
    届かない絵はがきというのがあります。

    そして、もうひとつ。
    シルクロードのホテルから送ってもらうようお金も払ったのに
    いまだに届かない絵はがき。
      いいかげんなシルクロードのホテル  もう五年以上も待っているのに。


    [No.7722] Re: アルテ・ピナコテーク(ミュンヘン)を訪ねて 投稿者:男爵   投稿日:2016/09/10(Sat) 13:55
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    画像サイズ: 1127×701 (74kB)
    唐辛子紋次郎さん、みなさん、こんにちは。

    > > 私も1982年頃に
    > > アルテ・ピナコテークを見学しました。

    > その頃ならまだ、おそらく改装工事は始まっていないでしょうから、所蔵作品はすべて観られたでしょうね。いまは、長い工事中なので、来年行ったとしても、全部は観られないでしょうね。

    疲れていたので階段を登ったりして、全部見たというより
    全部歩いたという方が実感でした。

    事前に知っていた
    アルブレヒト・アルトドルファー「アレクサンドロス大王の戦い」だけは
    印象に残っています。
    https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%96%E3%83%AC%E3%83%92%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%89%E3%83%AB%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%BC

    > > ミュンヒェンにある有名な美術館アルテピナコ
    > > ティークへ駅から歩いて行こうとして,地図を見
    > > ると,市立レンバッハ美術館の近くに州立の古生
    > > 物学収集館(Staatssammlung fuer Pa1aeontologie
    > > und historische Geologie)があるので,回り道を
    > > して,そこの標本を見ていくことにしました.


    >  あっしのガイドブックは安物なので、載っている地図は、ニュンフェンブルクのあたりまでで、ケーニッヒ広場までは出ていません。たぶん、そのレンバッハ美術館や古生物学収集館と云うのはこの広場の近くだと思いますが…。

    そうです。
    ケーニッヒ広場の手前です。

    ブリーナー通り、アウグステン通り、ルイーゼン通り、ガーベルスベルガー通りに
    囲まれた中に、レンバッハ美術館や古生物学収集館があります。

    http://4travel.jp/overseas/area/europe/germany/munchen/kankospot/10332784/map/  


    当時写してきた写真です。 あまりよく写っていませんが。


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