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 文集   2015.1.1更新

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  • [No.7302] 「独逸日記」に、意外な記述〜読書余滴 投稿者:唐辛子紋次郎  投稿日:2015/09/29(Tue) 17:49
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    画像サイズ: 252×602 (70kB)
     鴎外の、例の「独逸日記」を何の気なしにパラパラやっていて、意外な発見をした。その内の二つ三つをご紹介。


     例の物知りウィッキーさんの、オリエント急行の項を見ると、この豪華寝台列車、いわゆるワゴン・リは、明治16年に開通記念列車を、パリ〜イスタンブル間に走らせている。そこで、

     「独逸日記」の明治20年9月28日の項をみると、えっ、9月28日といえば、何と今日ではないか!この時、彼はカールスルーエからオーストリアのウィーンまで乗っている。

     読者は、ずいぶん贅沢な、あるいは、要するに初物好きなんだね、と思われるかもしれないが、これは当時、ウィーンで万国衛生会という会議が開かれ、石黒忠悳さん(当時軍医監、少将相当)という方が日本政府代表として出席された。鴎外はその随行を命ぜられたわけである。


     ただ残念なのは、あのワールドフェイマスな、オリエント急行列車の、乗り心地や車内の調度などについて感想の記述が、マッタクないことだ。もっとも、彼は当時、日本食論に没頭していたので、それどころではなかったのだろう。

     その証拠に会場で、自著の日本兵食論を出席者に配ったりしている。また、会議の際には、石黒に頼まれた舌人(通訳)の役もこなさなければならなかった。


     この石黒さんというのは、鴎外の上司であるが、日記では石氏になったり、石君になったりしていて、面白い。


     つぎ。こんにち大流行中の『イタ飯食い』の開祖は意外にも、鴎外だった。しかもイタ飯だけでなく、イタリアン・ワインの有名銘柄、名画「ローマの休日」でもお馴染みの「キアンティ」まで飲んでいたという。

     食べ物の方は、オリエント急行乗車の1年前の初夏、日本人の友人3人と、民顕(ミュンヘン)は『ヨーゼフ・ヴィシンタイナー』★という屋号の伊太利酒店で、北イタリアの名物、ポレンタなどを食している。イタキチのあっしでさえ、ことしの旅行で初めて食したというのに。

     お味の方は、珍しく書いてあり、どうも硬くて、あまり美味くなかったようだ。思うに、この店は、友人の中の、原田の提案だと思う。原田は鴎外の無二の親友で、渡欧後、かの地の美術学校に学び、チェチリアなり美人学生とかなり深い交際をしている。彼女はその名前からして、どうみてもイタリア系であり、また愛人のマリイを伴ってイタリアなどへも旅行している。あっしには、原田は、普通人以上に、イタリアが好きだったように思えるのだ。

     第3に、あっしらが本年の6月、クレモナを訪れた際、自販機から入手した菓子の箱に、MIKADOと書いてあったことは、メロウの「旅行記」に既に報告済みだが、これはイギリスの有名なオペレッタで、上演回数が672回と云うから、当時は大変なロングラン公演だったのであろう。

     現在でも公演はあるようだが、初演が明治の18年で、鴎外はその翌年にこれを観劇している。感想としては、役名の中国人風の名がまず、気にいらなかった。ヒロインがヤムヤム(鴎外の日記ではユムユム)では、他は推して知るべしと、一刀両断のもとに切り捨てている。しかし、娘役の着物の着方などには目を留め、これは褒めている。また、


     鴎外は公私ともに超多忙で、その上小説まで書いていたのであるから、当時イギリスで、日本ブームがまき起こっていたなどという背景にまでは、思い至らなかったのであろう。終戦直後、東京のアーニーパイル劇場で(現東京宝塚劇場が進駐軍に接収され、一時改名)これが上演されたことがあったことは、あっしも、マッタク知らなかった。グリコのおかげで、初めて知った次第。グリコよ、有難う。(^^♪ 【9月28日記】   (おわり)

     ★屋号が、『ドルチェ・ヴィータ』とか、『ダ・カーポ』などだったら、すこしは美味いかも知れないが、この屋号じゃ、どうせドイツ料理の延長のようなものを食わされたのに違いない。(^^♪


    [No.7301] Re: ドイツと日本を結ぶものー日独修好150年の歴史-〜2 投稿者:GRUE  投稿日:2015/09/29(Tue) 11:28
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    紋次郎さん、面白いお話のおまけありがとうございます。

    >  うっかりして、書き落としたが、なぜ150年かと思われた方へ。1862年、わが国幕府は(竹内)遣欧使節団をかの地に派遣しましたが、その前年の1861年、わが国とプロイセンは修好通商条約を結びました。それから、150年と云うことです。交渉の担当者は、わが方も幕府なら、先方も、まだドイツ誕生前のプロイセン王国でした。会場内には、この時、条約締結に活躍したドイツ方の、オイレンブルク伯爵の肖像画も飾られていました。

    茶々を入れるようで申し訳ありませんが、年数の辻褄が少し合わないようですが
    まあそれは小さなこと。

    >
    >  添付写真は、渡航した幕府使節団のカリカチュアですが、日本側も、ドイツ側も、いずれ劣らぬ『出る腹』に描かれています。漫画にするには『出る腹』が不可欠とでも考えたのでしょうか。かの地の「クラダラダッチュ」という風刺漫画誌に掲載されたそうですが、21世紀の今日、その現物が館内で見られることはオドロキです。

    確かに漫画だからでしょうが、当時の日本人武士、こんなに「出る腹」の人は
    少なかったと思いますね。ドイツは、ビール、ソーセージ、ポテトですから、
    お腹が出やすいのはわかります。まあ、今の日本人も美食家になってますが。


    [No.7300] Re: 人生の転機 投稿者:ザックス  投稿日:2015/09/29(Tue) 11:27
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    Grueさん、おはようございます。

    過分の感想を頂き、恐縮するばかりです。

    人生の総括は自分しか出来ないと思い、メモ的に書いたものです。

    自分にとって大きなプラスは旧制高校の最後に間に合い、そこで短い期間でしたが
    寮生活が出来たことと、軽い肺結核の初期で1年休学したことが、結果的には
    高校を4年やったことになり大変良かったのだと考えます。(この間に画家や彫刻家と知り合えました。又、クラス会なども上、下2年分で倍出ています。)

    これで少し早く生まれた人たちはかなりの人が戦争で亡くなっています。
    1929年に生まれたことで幸運だったんだ、と思います。

    滅多にない戦争の前と後を経験したことも計り知れないものがあったと思っています。
    食い物が無くてお湯のような芋粥も啜りましたが・・・。それでもこの年まで生かしてもらっていますから。


    [No.7299] Re: 玉三郎の政岡 投稿者:GRUE  投稿日:2015/09/29(Tue) 11:17
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    たか華さん、みなさん、おはようございます。

    > 今月、歌舞伎公演「秀山祭」9月公演の夜の部の、通し狂言「伽羅先代萩」(メイボクセンダイハギ)を観に行った。
    > これは伊達騒動を扱った狂言。

    臨場感あふれるすごい観賞のご報告ですね。私も参加しているような錯覚に
    陥りました。

    ここまで入れ込めるのはなかなかのことと思いました。これを糧にして、更に
    舞へ精進されるのでしょう。

    ありがとうございました。


    [No.7298] Re: ドイツと日本を結ぶもの―日独修好150年の歴史ー 投稿者:GRUE  投稿日:2015/09/29(Tue) 11:10
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    紋次郎さん、おはようございます。

    >  で、第一次で戦勝国になった日本は、ドイツ兵を日本国内の複数の捕虜収容所へ入れた。捕虜との関係は大体において友好的で、ドイツ人捕虜は、近隣の市民ともおおいに交流した。
    >
    >  この「ドイツ展」で、あっしは、話には聞いていたが、実際には一度も見たことのない捕虜の作った音楽会のプログラムなどを実見することが出来た。彼らの中には入隊前、様々な職業についていたものが居り、そのおかげで近隣の市民は、彼らから種々の技術をじかに教わることが出来た。いわゆる技術移転である。多数のデータの中に、彼らの作った種々様々な印刷物が残されている。それが、当時は
    >
    >  ガリ版しかなかったという割には、なかなか立派な出来で、どう見ても素人離れしている。捕虜の中には、ペンキ屋から大工、パン屋から肉屋と、何でも揃っていたらしい。
    >
    >  九州は久留米の収容所でのコンサートでは、なんと捕虜がワグナーの「パルジファル」を演奏したそうである。

    1920年ごろのお話でしょうが、日本にドイツ人捕虜収容所があったとは、
    初め知りました。

    その後、ドイツとはなかよくなっていくので、待遇も結構自由だったのかも
    しれませんね。

    それにしても立派なプログラムですね。垢抜けしている感じがします。
                               (つづく)


    [No.7297] Re: 今日もまたまた歩いて 投稿者:GRUE  投稿日:2015/09/29(Tue) 11:04
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    あやさん、みなさん、おはようございます。

    相変わらずの超人(鉄人?)ぶりに舌を巻いています。(笑)

    > 昨夜の呑み疲れ、寝不足などものともせずに、山坂を歩いてこれてよかったとは
    > 思っているが、こんなことでいいのかと、わが体を心配しているところでもある。

    1万歩を歩くのはなかなか大変です。私なんか滅多にない。5,6千というところ。

    ところで、心配でもありますが、あやさんなら大丈夫かなとも思うところです。
    一応気を付けながらやってくださいね。


    [No.7296] Re: 人生の転機 投稿者:GRUE  投稿日:2015/09/29(Tue) 10:57
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    ザックスさん、みなさん、おはようございます。

    > 私の人生の後半を簡単に纏めてみます。

    輝かしい経歴は聞き及んでいましたが、こうして端的にまとめられて、改めて
    感銘を受けるばかりです。それも直面された転機に自然に対応された結果であっ
    たことも推測できます。

    しかもこれほどの実績をお持ちにも関わらず、ご謙虚なのには、更に頭が下がり
    ます。知識の広さ深さ、趣味の広さも抜群ですね。

    いつまでも元気でご活躍を願っています。

    ありがとうございました。


    [No.7295] 人生の転機 投稿者:ザックス  投稿日:2015/09/28(Mon) 15:34
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    私の人生の後半を簡単に纏めてみます。

     産婦人科の医局で皆、がんやホルモンを専攻していましたが、私は人がやらないものを、と未熟児、新生児の仮死の蘇生法を色々試していました。その為のベットとか電気吸引器(口腔内の粘液を除去)や酸素ボンベを一体にした機器の開発など。

     それが契機で当時の皇太子妃殿下のご出産に、東大産婦人科の小林隆教授の助手として宮内庁病院へ行き、その後毎年皇后様のお誕生日に伺う等大きく人生が変わったのでした。何が人生を変えるものか、分からないものですね。


    [No.7294] Re: 玉三郎の政岡 投稿者:くるくる  投稿日:2015/09/27(Sun) 22:12
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    たか華さん

     大変興味深く拝読させて頂いています。

     以前、博多座で、染五郎の「伊達の十役」 を見ました。

     染五郎が最もやりたかったという、政岡。
     染五郎の政岡、いまいち心に響く思いがありませんでした。

     たか華さんの、玉三郎の政岡の感動、拝読していてその場が見えるようでした。

     これからも、たか華さん、楽しみにしています。

     
       


    [No.7293] ドイツと日本を結ぶものー日独修好150年の歴史-〜2 投稿者:唐辛子紋次郎  投稿日:2015/09/27(Sun) 16:48
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    画像サイズ: 450×326 (74kB)
    前回いちおう(つづく)などと書いてみたが、あまりつづくものが、無いような気がする。でも、(つづく)と書いた責任上(^O^)、もうすこしつづけてみることにする。

    XXXXXXXXXXXXXXXXXXXXX  XXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXX  XXXXXXXXXXXXXXXXXXXXX


     最近、ドイツはVWの不正ソフト使用の紋題で大揺れに揺れている。そこで、車王国ドイツの一大スキャンダルに若干触れて見ようかとも思ったが、かの地では、何でも日本製の『おにぎり』が大人気とかいうので、批評は控えることにする。(^_-)-☆

     で、ドイツ展の展示の方へ戻るが、捕虜収容所での盛んな文化活動のほかに、印象に残ったことを挙げれば、やはりあっしの敬愛する森林太郎こと森鴎外、日本の国際社会への紹介におおいに尽力して呉れた、成りきりオランダ人ことフィリップ・シーボルト、それに地元の史跡、順天堂蘭学塾関係の展示物などなどである。また、

     ドイツとの橋渡しに生涯をかけた日本人として大活躍、ついには外務大臣にまでなった青木周蔵と云う人物。あっし自身、恥ずかしながら本展で初めてその存在を知ったが、この仁、すでに日本人妻がありながら、ドイツの伯爵令嬢と結婚するという破天荒な、日本人離れをしたところが、とにかくスゴイ。両者を比較すると、エリーゼを故国に「追い返した」鴎外は、青木に比べ、ちょっと、だらしない感じに見えて来る。

     150年と云うタイムスパンでは、色々なことが起こりはしたが、兎に角これだけ続いたので、両国の関係は、将来にわたって、ますます緊密にしたいものだ。

     展示物はみな、それぞれに面白かった。だが、その内でも、白眉と云うべきは、アインシュタイン来日の際、地方回りをした。その時同行した岡本一平が描いたというアインシュタインの似顔絵が、実によく出来ており、あっしは辺り構わず、大声で「上手いっ!」と叫んでしまった。

     企画展示室はA、Bの2室に分かれ、あまりにも多くの展示物で溢れ返っていたので、どうもうまく考えがまとまらないが、ドイツ学草創期の辞書、文法書の類いなども、関係者には、おおいに参考になるものと思う。


     他に、青木周蔵とは別の意味で、沖縄の宮古島に建てられ両国の懸け橋となった、「ドイツ皇帝博愛記念碑」(現在は破損状態がひどく、建立地から撤去されたよし)★、それに木戸正次郎(孝允の甥)の「洋行願」などは貴重な資料だと思う。

     ★ 同館には、その拓本がある。


     うっかりして、書き落としたが、なぜ150年かと思われた方へ。1862年、わが国幕府は(竹内)遣欧使節団をかの地に派遣しましたが、その前年の1861年、わが国とプロイセンは修好通商条約を結びました。それから、150年と云うことです。交渉の担当者は、わが方も幕府なら、先方も、まだドイツ誕生前のプロイセン王国でした。会場内には、この時、条約締結に活躍したドイツ方の、オイレンブルク伯爵の肖像画も飾られていました。

     添付写真は、渡航した幕府使節団のカリカチュアですが、日本側も、ドイツ側も、いずれ劣らぬ『出る腹』に描かれています。漫画にするには『出る腹』が不可欠とでも考えたのでしょうか。かの地の「クラダラダッチュ」という風刺漫画誌に掲載されたそうですが、21世紀の今日、その現物が館内で見られることはオドロキです。(完)


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