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捕虜と通訳 (小林 一雄)

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通常 捕虜と通訳 (小林 一雄)

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2007/10/30 7:42
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 はじめに

 この記録は、著者、小林一雄氏の了解を得て掲載するものです。
 同氏は、大正11年生まれ、お元気です。
 なお、この記録は1989年のものです。

 メロウ伝承館 スタッフ

  
 序 章

 ある日、NHKテレビを見ていた。「世界は今」という、戦後《=第2次世界大戦、1939~1945》四十二年目の旧アメリカ兵捕虜の証言を放送したドキュメント特集が私の目を惹《ひ》いた。戦時中、日本軍に捕えられたアメリカ軍捕虜の生存者が過去をふり返り、現在の日本の繁栄に驚き、同時にアメリカの経済発展を謳歌《おうか》するさまが描かれていた。

 当時、敵国だった日本に対する協力を拒んだアメリカ軍のある捕虜の証言だというその内容をナマの声で録音、放送したのが気にかかった。「東京の捕虜収容所での生活は惨めなものだった。食も与えられず、空腹に耐えかねて花びらや茎、マッチ棒、シーツなどをちぎって食べた。人間の扱いではなかった。収容所側は国際法を無視したひどい待遇でわれわれに接した」という意味のものだった。話の途中から私の胸のうちは憤りに燃えてきた。話が進むにつれてその怒りはいっそう燃え上がる思いだった。「そんなバカな。捕虜収容所で食糧を与えないところなんか、あるはずがない。全収容所を同一にみているような発言ではないか。裏打ちのある証言なんだろうか。どうもキナ臭い《=なんとなくあやしい》」怒りがこみ上げてきた。

 というのも、私自身、大阪府下の捕虜収容所に勤務していた経験から、彼等捕虜への食事、医薬など対応には細心の注意を払っていた。彼らからこうした点について、いろいろな要求や文句もあったが、そんなにひどいものではなかった。むしろ感謝されることが多かった。こんな体験をもつ私にしてみれば、NHK特集での、元捕虜の一人の発言がどうしても納得できなかった。捕虜収容所に勤務した者の名誉にかけても、何とかその真相をつかみたい衝動にかられた。すぐさま東京のNHKに電話をかけた。

 「あの特集で捕虜がいったという証言は裏打ちがあるのか?」電話を担当に回され、しばらく待たされたあげくの回答がはね返ってきた。「実は取材した全般の状態から判断して、元捕虜の発言をそのまま録音して放送したものです。具体的な証拠や物件の裏打ちはありません」何ということなのか。公正を期し、信用を第一とする、公器《=おおやけの機関》を自認するNHKの、これがやり方なんだろうか。怒りと嘆きの入りまじった複雑な気持ちになった。特殊な環境下の捕虜もいただろうが、一般的な捕虜取り扱いを報道せず、特異な一面だけを取り上げたやり方は、平均的な一般の捕虜収容所関係者にとって実に不公平で、誤解を招くもとだ。

 この疑問点への結論がハッキリした途端、私の心にはもうNHKを責める気はしなくなった。

 私の電話で反省し、これからの放送と取材のあり方に報道機関としての権威にかけて、十分公正な気構えと体制で臨むことを期待したからだ。私自身、NHKは大好きなのである。視聴者に誠意をもって応える法人だと信じたい。それよりも、これをキッカケに、私が全力でぶつかり、見聞し、体験した捕虜収容所の実情、ナマの姿、そこに暮らした捕虜たちの素顔と日本側の対応、交りの実態、それにまつわるさまざまなことを率直に活字にしたい気分に駆られた。

 思い出すままに記憶をたどれば、活字に素人の私でも何とかなるだろう。その道のベテランに相談すると、ぜひ実行し、世に問い、訴えれば、あの時代の一つの貴重な証言となるはずだといってくれた。

 ついに決意した。そしてベテラン専門家の助けを得て活字化のためのスタートをきった。時代の証言とか、捕虜収容所の実態とか、そんな肩ひじを張った考えではない。あの収容所でともに働いた旧軍人のなかから、いわれなき罪で〝戦争犯罪″の汚名をきせられたとの呪《のろ》いにも似た声も戦後、何度となく聞かされた。
《=終戦後、多数の軍人が捕虜を虐待したと指名されて戦争犯罪者になった》 
 
 これも活字化への動機となった。私のささやかな体験でも勝者に裁かれた敗者の苦しみと受けとれる事象があった。もちろん、これがすべてだとはいわないが、戦争はまさに人間を狂気に追い込み、勝者にも敗者にも、あと味の悪い残滓《ざんし=のこりかす》をふりかける。その戦後処理には、勝者の論理が優先する。このことは歴史が証明するところだ。

 こうした根元となる戦争をなくすることが人類の至上《しじょう=最高》の命題であり、悲願である。営々と築き上げた人類社会のすばらしい文化を、われわれの手から次世代、さらに後世に無痕《むこん=傷跡を残さない》で渡し、遺し、伝えるためにも、私のささやかな体験が、微小な役割の一端を担えればと心から願っている。

 「大正」に生まれた私だが、偶然にも「昭和」の終焉《しゅうえん=最後》にぶっかり、新しい「平成」のスタートに生きることとなった。戦争と平和の交錯した「昭和」は、史上稀《まれ》な長期を記録したが、それはまた歴史を疑縮《(凝縮)ぎょうしゅく=まとめ固める》した一時代であったともいえよう。いま、過去の私の小さな体験をまとめるに当たって、旧時代の持つ意味と、新時代への限りない期待が〝切瑳琢磨《せっさたくま=互いに励ましあって学徳をみがく》″を呼びかけるように脳裏を去来する。小著がこの大きなうねりのなかで、いかほどの役割を果たすかはわからないが、少くとも過去と未来へのすばらしい飛躍台にするという平凡な役割の何分の一でも果たせれば幸いである。







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