捕虜と通訳 (小林 一雄) (3)
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編集者
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 4298
生涯の扉を開く・その2
当時、日ごとに戦争の火花が激しくなり、最上級の三年生は学徒兵《=1943年、学生も兵役につく制度になった》として出陣する者が多かった。一人去り、二人去り、われわれの仲間は歯の抜けたように少なくなっていった。とくにESSのグループからも軍に入隊する者が多く、会話相手が日ごとに少なくなっていった。
メンバーの一人に日系アメリカ二世のポール・保・池田君がいたが、彼も予備学生《=大学生が志願して訓練を受け予備士官になる》に志願、学徒兵の一人として日米決戦のために出陣した。私とはつねに英会話を交わす、いや教えてもらった同輩だった。彼の場合は、英語が日本語と同じように流暢《りゅうちょう=すらすらとよどみなく話す》だったため、日本人の英語教授による「英語」の時間には、「出席しなくてよいから図書館で自由にしてきなさい」と、ムリヤリ、聴講を拒否(?)されたほどだった。それでもESSにはスミス教授が出席を指示し、彼はよりすばらしい英会話マスターに懸命だった。その池田君も、海軍士官として学徒出陣する際「わが身は日本にある。アメリカ二世でも日本人としてアメリカ領土爆撃に行ってくるよ」と笑って勇躍、出発した姿をいまも忘れない。
彼は戦後、日本占領連合軍総司令部(GHQ) のスタッフとして財閥解体に活躍後、アメリカ日綿実業社長として実業界でも活躍、いまはアメリカ国籍で日米両国の架け橋として頑張っている。
旧高商時代のアルバムをめくると、あの太平洋戦争時代の戦意を燃やした学生気質を思い出す。「我、大空に散り大東亜《=戦時中の呼称、東アジア、東南アジアの周辺》の礎とならん」「安らけき学舎から誠もて、南海の大空へ、日米決闘場へ」「祖国は我等を求む。いざ行かん南の決戦場へ」神戸高商の卒業アルバムには、同窓生の口々から、三星霜《さんせいそう=三年の年月》を学んだ学舎をあとに巣立つ若者の心情が赤裸々《せきらら=包み隠し無く》に描かれている。
ある者はそのまま学徒兵として出陣する決意にあふれ、ある者はやがてやってくる”戦乱〟の運命に、人生の崇高な悟りの心で飛び込む気迫に満ちている。昭和十八年一九四三)秋、神戸高商を卒業したが、当時の社会の姿を見せつける寄せ書きだ。
それにしても高商時代に出会った恩師、同僚、先輩等々のうち、私の一生を左右する出会いも少なくなかった。いま思えば、ここでもそうした運命の糸は確実に私に垂れ下がっていた。
太平洋戦争の真っ只《ただ》中、体の弱かった私は学徒出陣からも除外されたままの卒業だった。当時の風潮としては肩身の狭い思いが先行して、外出することさえ屈辱に感じたものだ。それでも、職もなくぶらぶらできる世相ではなく、国策スクールの堺青年学校に教師として勤めた。
その最中に召集令状を受けて応召したものの、ここでも痔(じ)疾患が原因の虚弱体質のために、即日、応召を解かれて帰郷した。
一億総動員の時代、成人の若者は何らかの形で軍隊経験をし、多くの先輩、友人は各地の戦線で戦死する悲報がつづく日々。一日の軍隊経験もしないで応召にも拒まれ、銃後《戦場とならない後方の内地》の職を求める若者の心情…つらく、悲しい思いにひたらないのが異常といえる時代だった。
そんな昭和十九年(一九四四)三月のある日、「若者は、戦線に立たなくても何かの形で間接的に国家に奉仕して職につかんと心身ともに再生できなくなる。若い君だ。せっかく培った能力を生かす職場にこないか?」と、就職口をもって来て下さったのが、あの中学時代の恩師、倉西先生だった。陸軍中尉のりりしい軍服に身を包んだ倉西先生の姿に驚いたが、次いで出たことばにも驚いた。「捕虜たちの通訳としてこないか?君なら十分、通用するから」
当時、敵国だった英米などの軍人が捕虜として日本の本土へ移送されているのを知ったのもこの時だった。大阪にも各地に捕虜が隔離、移送されていた。倉西先生は大阪捕虜収容所多奈川分所(大阪府泉南郡岬町多奈川)の分所長だったのだ。軍服のナゾも解け、結局、日常英会話が多少でも話せるか、どうか自信もないまま、恩師・倉西中尉の強い説得にねじふせられたかっこうで同分所へ「民間人通訳」として就職した。昭和十九年(一九四四)春、二十一歳の時だった。
当時、日ごとに戦争の火花が激しくなり、最上級の三年生は学徒兵《=1943年、学生も兵役につく制度になった》として出陣する者が多かった。一人去り、二人去り、われわれの仲間は歯の抜けたように少なくなっていった。とくにESSのグループからも軍に入隊する者が多く、会話相手が日ごとに少なくなっていった。
メンバーの一人に日系アメリカ二世のポール・保・池田君がいたが、彼も予備学生《=大学生が志願して訓練を受け予備士官になる》に志願、学徒兵の一人として日米決戦のために出陣した。私とはつねに英会話を交わす、いや教えてもらった同輩だった。彼の場合は、英語が日本語と同じように流暢《りゅうちょう=すらすらとよどみなく話す》だったため、日本人の英語教授による「英語」の時間には、「出席しなくてよいから図書館で自由にしてきなさい」と、ムリヤリ、聴講を拒否(?)されたほどだった。それでもESSにはスミス教授が出席を指示し、彼はよりすばらしい英会話マスターに懸命だった。その池田君も、海軍士官として学徒出陣する際「わが身は日本にある。アメリカ二世でも日本人としてアメリカ領土爆撃に行ってくるよ」と笑って勇躍、出発した姿をいまも忘れない。
彼は戦後、日本占領連合軍総司令部(GHQ) のスタッフとして財閥解体に活躍後、アメリカ日綿実業社長として実業界でも活躍、いまはアメリカ国籍で日米両国の架け橋として頑張っている。
旧高商時代のアルバムをめくると、あの太平洋戦争時代の戦意を燃やした学生気質を思い出す。「我、大空に散り大東亜《=戦時中の呼称、東アジア、東南アジアの周辺》の礎とならん」「安らけき学舎から誠もて、南海の大空へ、日米決闘場へ」「祖国は我等を求む。いざ行かん南の決戦場へ」神戸高商の卒業アルバムには、同窓生の口々から、三星霜《さんせいそう=三年の年月》を学んだ学舎をあとに巣立つ若者の心情が赤裸々《せきらら=包み隠し無く》に描かれている。
ある者はそのまま学徒兵として出陣する決意にあふれ、ある者はやがてやってくる”戦乱〟の運命に、人生の崇高な悟りの心で飛び込む気迫に満ちている。昭和十八年一九四三)秋、神戸高商を卒業したが、当時の社会の姿を見せつける寄せ書きだ。
それにしても高商時代に出会った恩師、同僚、先輩等々のうち、私の一生を左右する出会いも少なくなかった。いま思えば、ここでもそうした運命の糸は確実に私に垂れ下がっていた。
太平洋戦争の真っ只《ただ》中、体の弱かった私は学徒出陣からも除外されたままの卒業だった。当時の風潮としては肩身の狭い思いが先行して、外出することさえ屈辱に感じたものだ。それでも、職もなくぶらぶらできる世相ではなく、国策スクールの堺青年学校に教師として勤めた。
その最中に召集令状を受けて応召したものの、ここでも痔(じ)疾患が原因の虚弱体質のために、即日、応召を解かれて帰郷した。
一億総動員の時代、成人の若者は何らかの形で軍隊経験をし、多くの先輩、友人は各地の戦線で戦死する悲報がつづく日々。一日の軍隊経験もしないで応召にも拒まれ、銃後《戦場とならない後方の内地》の職を求める若者の心情…つらく、悲しい思いにひたらないのが異常といえる時代だった。
そんな昭和十九年(一九四四)三月のある日、「若者は、戦線に立たなくても何かの形で間接的に国家に奉仕して職につかんと心身ともに再生できなくなる。若い君だ。せっかく培った能力を生かす職場にこないか?」と、就職口をもって来て下さったのが、あの中学時代の恩師、倉西先生だった。陸軍中尉のりりしい軍服に身を包んだ倉西先生の姿に驚いたが、次いで出たことばにも驚いた。「捕虜たちの通訳としてこないか?君なら十分、通用するから」
当時、敵国だった英米などの軍人が捕虜として日本の本土へ移送されているのを知ったのもこの時だった。大阪にも各地に捕虜が隔離、移送されていた。倉西先生は大阪捕虜収容所多奈川分所(大阪府泉南郡岬町多奈川)の分所長だったのだ。軍服のナゾも解け、結局、日常英会話が多少でも話せるか、どうか自信もないまま、恩師・倉西中尉の強い説得にねじふせられたかっこうで同分所へ「民間人通訳」として就職した。昭和十九年(一九四四)春、二十一歳の時だった。